「手塚治虫はヘンタイだからね」
ある作家がそう語るのを聞いたことがある。
もちろん同意した。その作家の意見に賛同したいとか、おもねるべきだという気持ちは毛ほどもなかった。我が意を得たりと思ったから同意したのである。そうだ、手塚治虫はヘンタイなんだ!
批判を受けそうだから、誰でもわかるように説明しよう。
『リボンの騎士』。あれ、男装の貴婦人の話である。そういう嗜好がない人が考えつくわけないでしょ、そんな話。さらに、あれを描き続けるということは、白いタイツをはいたお姫様を描き続けるということである。そこに何も感じない人にできるわけないじゃないの、そんなこと。
鉄腕アトムはおしりからマシンガンが出る。あれ、どうしておしりなんだろう。いいんだよ頭だって肩だって背中だって、開いてるんだから。でも、あれはおしりじゃないといけなかったんだ。どうしてか、考えたことある?
手塚治虫がヘンタイ──と言ってしまうと語弊があるので、異常性欲者と言い直すが──だったことは、真摯な読者の間では共有事項、いわばコモン・センスとなっている。だからすごいんだ、と語る人も多い。
ゆえに腹が立つんだ。「手塚治虫」と「平和」をセットして語り、なにかを言ってるような気になってる意見を見ると。手塚が死んでしばらく経てば、こういう意見はなくなると思っていた。でも、その様子はまったくない。今でも年に2、3度は見る。
以前は、そういう意見を雑誌や新聞などで見たら、放り投げずにいられなかった。腹が立って仕方がなかったからだ。最近じゃそういうこともなくなったが、これは大人になったからではなくて、見る媒体がパソコンとかスマホとかタブレットとか、投げると壊れちゃうものに変わったからである(あっ、紙媒体のよさをひとつ見つけたぞ!)。
手塚治虫が平和を語っていたのは事実だ。戦争の悲惨も表現していたし、それを忌避すべきだ、排除すべきだとも主張していた。しかし、その困難を強く認識してもいたのだ。彼が作品で平和を表現するときはたいてい闘争がセットになっていたし、なにより彼は、平和の主体である人間が恐ろしく複雑であることを理解していた。おまえらみたいに、平和平和とお題目唱えてりゃ平和になるなんて太平楽じゃなかったんだよ。汚え手でさわるんじゃねえ!
『ばるぼら』は、そんな手塚の表現論・芸術論が披瀝された作品であり、さらには彼の深く、重い人間観を表現した作品である。
主人公はベストセラー作家・美倉洋介。彼は異常性欲の持ち主であると語られる。実際、美倉がベッドインした相手は、まさに異常そのものだ。マネキンやら犬やら幽霊やら、よくもまあこんなもんに、というものに欲情している。だが、本人も語っているとおり、この異常性欲こそ表現の源泉であり、治癒することはできない。
一方、ヒロインのばるぼらは美倉が街の雑踏の中で拾ったアル中の乞食女としてストーリーに登場してくる。女っぽいところはぜんぜんないし、汚いし臭いし、金や酒をくすねる悪癖もある。要するにロクなもんじゃないのだが、美倉はなぜか彼女を追い出すことができない。
やがて、ばるぼらは成熟した美しい女性として姿を現す。彼女に恋心を抱いた美倉は結婚を切望するが、式の失敗もあって、彼女は姿を消してしまう。じつは、ばるぼらとはミューズ(詩神)だったのだ。そばにおいておかなければ何も書けない。そう感じた美倉は彼女を探し、誘拐し、殺す。本作のクライマックスは、誘拐犯にして殺人犯となった美倉が、逃走の渦中、飢えに苦しみながら、愛する女性の死体を前に最後の作品を書くシーンだ。その作品のタイトルは『ばるぼら』という。
ところで、物語の展開に目を奪われ、つい見落としてしまうが、美倉の異常性欲とは結局なんだったのだろう? 作中にそのことについて説明はない。医師の資格を持つ手塚がそれを定義づけなかったはずはないのに。
以下は筆者の考えであるが、美倉の異常性欲とは「性的な幻覚を見て、現実と幻覚の区別がつかなくなったあげく、ベッドインまでしてしまう性癖」だったと思われる。
だとすれば、この『ばるぼら』という数奇な物語は、どこまでが現実で、どこからが幻覚かわからない。ばるぼらがとつぜん魅惑的な女性になったのも、彼女が変わったのではなく、美倉がそういう幻覚を見るようになったからではないのか? そもそも、ばるぼらという女性は本当にいたんだろうか?
いずれにせよ、美倉洋介の小説は、彼の精神──異常性欲に深くかかわっていた。
手塚治虫も同じだったのではないか。
死の床でさえマンガを描く手を休めなかったという手塚の旺盛な表現欲求は、常人では持ち得ないような異常な性欲に裏づけられていたのではないか。
手塚はたしかに平和を表現したかもしれない。だがそれは、彼が強い性的欲求を持っていたから表現し得たものだった。言いかえれば、人間の複雑な欲望、わけても性欲の存在を認めていたがゆえに、手塚は平和を描き得たのだ。
だからこそ信用できる。真の傑作は、異常性欲者の誘拐犯にして殺人犯が、殺した女性の死体を前にして書いたときこそ生み出される。そういう考えを持っている作家が言う平和だからこそ、信じよう大事にしようと思うんだ、すくなくとも俺はね。おまえらの軽薄な平和と一緒にするんじゃねえよ。もう一度言う、汚え手でさわるんじゃねえ!
『ばるぼら』には性欲だけでなく、さまざまなことが語られている。殺人、誘拐、放火、酒、乞食、神。悪魔、大麻、全裸、SM、儀式、集団、嫉妬、魔術、飢餓、表現、そして生と死。すべてが作品の生成にかかわっている。
『ばるぼら』は手塚治虫の表現論・芸術論であり、さらには彼の人間観を披瀝した作品だ。人間の内には、こういう不思議が渦巻いている。そこから目をそむければ、いかなる表現も存在し得ない。この作品は、そう語っている。
レビュアー
早稲田大学卒。書籍編集者として100冊以上の本を企画・編集(うち半分を執筆)。日本に本格的なIT教育を普及させるため、国内ではじめての小中学生向けプログラミング学習機関「TENTO」を設立。TENTO名義で『12歳からはじめるHTML5とCSS3』(ラトルズ)を、個人名義で講談社ブルーバックス『メールはなぜ届くのか』『SNSって面白いの?』を出版。「IT知識は万人が持つべき基礎素養」が持論。2013年より身体障害者になった。