リモートワークで一番やっかいだなと思ったのは、会議中に相手の顔が見えないことだった。仮に相手が画面をオンにしていても、さほど画質のよくない小さな四角い窓の中に、もっと小さな顔がある。賛成なのかイマイチなのか何も考えていないのか、表情が読めない。コミュニケーションの粒度がみるみる荒くなるのでなんだか感心してしまった。どれだけ顔頼みで私は生きてきたんだよ、と。
ただ、そうも言ってられないので、問いかけたり相手の名前を呼んだりして、がんばってカバーしていくしかない。つまり、顔が見えていようが、そうでなかろうが、やりたいことややらなきゃいけないことは決まっている。
『香穂ちゃんは顔がわからない』の“林香穂”も、やりたいことは決まっていた。高校生活を楽しみたい。
香穂は、真っさらな制服のリボンがかわいいことも、桜がきれいなことも、そして自分がいまゴキゲンなこともわかる。でも人の顔や表情がわからなかった。
「相貌失認(そうぼうしつにん)」の特性がある香穂には、家族や親友の顔も判別できない。だから人混みでの待ち合わせは、顔がわからない香穂にとって、とてもドキドキすることだ。髪型や背格好をヒントに「この人かな……?」と声をかける。
幼なじみの“萌花”の顔も、香穂にはこう見える。そこにあるものが目や眉や口だとわかるだけでは「顔がわかる」とはいえないのが、読者の私たちにも伝わるはずだ。萌花は下がり眉やまん丸な目元がかわいい女の子だが、香穂にはわからない。でも、振り返るなり「香穂!」と呼びかける萌花の声やしぐさで、彼女が自分の大好きな親友であることを判別する。巧みな描写だと思う。
萌花が見せる表情も香穂にはよくわからない。それでも香穂は萌花の制服がすごく似合っていて、かわいくて、新生活がうれしくてしょうがない。なにより萌花は香穂の親友だ。だから香穂は笑顔になる。
人の顔や表情を識別できない相貌失認の特性は、本書によると成人の1~5%が該当するのだという。
(※割合は程度により、諸説あります)
相貌失認を治す方法はまだ見つかっておらず、日常生活を送るために、顔以外の特徴を覚えて相手を判別する訓練を重ねる。香穂は中学生のときに診断を受けた。それから2年間、訓練をしてきたのだろう。入学式の日は髪型を頼りに萌花を見つけていた。ひょっとしたら、香穂のお団子頭も「あのお団子頭の子!」とみんなに覚えてもらうためなのかもしれない(似合っててかわいい)。
新生活で「友だちができるかな、あの子と仲良くなれるかな」とドキドキするのは、おそらくみんな同じで、香穂も同じ。そんなときに彼女は何をするか。
自己紹介タイムで聞いたみんなの情報を、ノートに一生懸命書き込んでいる。その様子を見ているのは“奥野澄(おくのきよ)”。奥野くんは入学式直前から何度か香穂に会っているが、自分への反応が濃かったり薄かったりする香穂のことが気になる。彼の顔は一度見たら誰もが忘れないくらい整っているのに、香穂はみんなのような「キャー!」みたいな反応をしない。
桜の木の下で香穂と萌花の写真を撮ってあげたらこの笑顔! そして、ここで「すごくいい写真!」と言った彼には、そう感じる理由がある。それはおそらく、普段「顔がわかる」と思っている私たちにも、この瞬間には見つけられない非常にパーソナルな事情だ。つまり奥野くんを深く知るには、その美しい顔ではなく、時間や、信頼や、思いやりや、いろんな要素が必要で、私にはそれらが香穂の「みんなのことをよく知る」とつながっているように思える。
香穂には、写真の中の自分が笑っているかもわからない。そんな香穂の言葉を「それってどういうことだろう」と奥野くんは不思議に思うが、このときの彼には、まだ香穂の事情はわからない。でも、わかりたいなあと思っている。『香穂ちゃんは顔がわからない』は、たくさんの「わからない」と「わかりたい」がぶつかる青春譚だ。
ということで、香穂の高校生活はスタート早々いろんなものと激突する。まず「香穂のノート」が大きな誤解を生んでしまう。判別のヒントのために自己紹介のキーワードや外見の特徴を必死にメモしていたものだったが、見ようによっては火種の宝庫のような存在だ。
表情がわからない香穂にも、自分がノートに書いた「ある言葉」を見た“神尾さん”がイヤな気持ちになったことはわかる。そして読者の私たちは、香穂と同じ視点で神尾さんの顔を見る。怖くてしょうがない。そう、「わからない」ことは「怖い」のだ。でも、その先を信じたら、怖いことは減るんじゃないか。そう思わせてくれるマンガだ。
奥野くん、いいやつなんだよなあ……。たとえ顔がわからなくても彼のよさはわかる。このマンガに出てくる高校生たちみんなを応援したくなる。よく知れば、全員と友だちになるチャンスが、全員に等しくあるんじゃないか。そう信じたくなるマンガだ。
レビュアー
花森リド
ライター・コラムニスト。主にゲーム、マンガ、書籍、映画、ガジェットに関する記事をよく書く。講談社「今日のおすすめ」、日経BP「日経トレンディネット」「日経クロステック(xTECH)」などで執筆。
X(旧twitter):@LidoHanamori