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2025.03.15

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弟が死んだ。幼い娘と妻を残して……双極症の兄が共同生活を試みるステップファミリー・ストーリー

おにぎりとお味噌汁

物語は、主人公・芥原昇司の弟の葬式から始まる。芸人だった弟の航平は、結婚して子どもがいることも告げずに交通事故で死んでしまった。昇司は葬式で初めて奥さんの今日子さんに会い、彼女が整体師をして生活を支え、弟が娘の結を育てていたことを知る。母ひとり、子ひとり。これからどう生活するか、引っ越しを考えているという今日子さんの話を聞き、昇司は敷金・礼金が貯まるまで一緒に暮らさないかと申し出る。昇司は古い一軒家を持っており、翻訳家として自宅作業をしているので、弟に代わり結ちゃんの世話もできるから……云々。そうして共同生活を始めるのだが。
昇司は、躁(そう)と鬱(うつ)を繰り返す双極症という病気を患っていた。鬱になると、ミルクとおむつの交換以外なにもできない昇司。双極症について黙っていたことを今日子に詫びると、
人は、1個のおにぎりとカップの味噌汁で救われることもあるのだ。

双極症は躁と鬱を繰り返す病気。本人は鬱を認識できても、躁状態を心地良く感じているため、自分が双極症であることに気づきにくいのだそうだ。そして社会的に問題を起こしやすいのは、異常に万能感にあふれ、異常に活動的になる躁状態のときだという。昇司が共同生活を持ち出したときも、キャパシティを超える仕事を受けて崩壊するのも、全部、躁状態のとき。また双極症は再発率が非常に高く、一生の付き合いとなる可能性が高い病気でもある。躁の時に問題を起こして、鬱になった時に自分を責める。その無限ループから逃れられない人生を考えると、途方にくれてしまう。それを言葉にするのなら、絶望と言い換えられるかもしれない。

この漫画の著者ふみふみこ氏は、双極症の当事者だ。

ご飯を食べ、働いて、寝て、起きる。

躁と鬱の間を行ったり来たりする昇司を受け入れ、共に生活する今日子さん。別に彼女は聖女ではない。
彼女は料理ができないし、家事も苦手。娘の結を預けるにも保育園は待機児童でいっぱいで、頼れる人もいない。そしてお金もない。選択肢が無いなかで、義兄の昇司との共同生活を選んだに過ぎない。それは生きるための打算だ。ただ、
昇司さんのこと全然わからないから
わかりたいとは思います
と考えて行動できる人物であることが、この物語の救いになっている。だからといってこの漫画には「双極症について理解しよう」なんて押し付ける感じはまったくない。というか、この漫画は私やあなたができないことを描く気なんてさらさらないと思う。もっとささやかなこと。自分の隣にいる人物を理解しようとすることが、自分やまわりの人を生きやすくする情景を描き出していく。それがたまらなく美しい。

先に昇司が1個のおにぎりとカップの味噌汁で救われるシーンを紹介したが、この作品には物を食べる場面がたくさん出てくる。
かつて昇司と航平がじゃがいもの皮むきを手伝った、ばあちゃん特製のカレー。
その残りのカレーをアレンジした、カレーうどん。
朝の散歩で食べるバナナ。
結ちゃん用に別の味付けを施した麻婆豆腐。
今日子が唯一作れる、市販のダシを使った鍋。
どんなに心が落ち込んで「死んだほうがマシ」だと思っても、体は物を食べることを欲する。このどうしようもない単純な原理には抗えない。今日子さんは、その原理にとても忠実な人物なのだ。それには理由がある。かつて彼女は空手に打ち込み、全国大会を目指すほどだったのだが、膝を壊して選手人生を諦めた。悔しくて死んでもいいと思った毎日。
とかく人は、自分の存在を心や感情のことだと考えがちだ。そして体はその容れ物くらいだと思ってしまう。でも物を食べて、寝てさえいれば、人は生きてしまうのだ。その単純さに、人はどれほど救われているだろう。この漫画の物を食べるシーンがこれほどまでに感動的なのは、食べることが心の救済であり、生きることだと教えてくれるからだ。

そんな今日子さんが、まだ果たせていないことがある。それは大切な人を亡くした悲しみや喪失感に向き合い、航平の死を受け入れる「喪の仕事」だ。昇司の双極症と子育てに追われ、彼女は航平の死に向き合う暇もない。昇司もまた、幼い結からパパと呼ばれることに後ろめたさを感じている。彼らの慎ましやかな生活には、ずっと航平の死が並走しているのだ。この漫画のタイトルは『楽園をめざして』だ。彼らがめざしている楽園とは、どんな場所なのだろう? 多分、昇司が双極症を克服した生活でもなければ、昇司と今日子が結ばれる生活でもない気がする。ご飯を食べ、働いて、寝て、起きる。そんな生活を繰り返しながら、柔らかく炊いたお粥を消化するように航平の死を受け入れて、ほんの少し「死」から遠ざかったところじゃないだろうか。たったそれだけの場所を求めて日々を生きる彼らが、本当に愛おしくてたまらない。

ここまで読んで「暗い作品?」と思われるかもしれないけれど、そんなことはないです。昇司の双極症の症状は滑稽だし、今日子さんは強いし、奇妙な登場人物も出てくる、とても楽しくて面白いお話です。是非、ご一読を。

レビュアー

嶋津善之

関西出身、映画・漫画・小説から投資・不動産・テック系まで、なんでも対応するライター兼、編集者。座右の銘は「終わらない仕事はない」。

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