いち読者の私が本屋さんで小説を手にするときは、とても個人的で孤独なことばかり考えている。もちろん面白そうだから読むのだし、その点でいえば大変ポジティブなのだけど、掘り下げれば掘り下げるほど自分しかおらず、孤独だ。そういう身勝手な孤独に耐えられる強度を持っているのが小説なのだと思う。ではそれはどうやって生まれるのか。
続きが読みたくなるような物語はどうやって生まれて小説として世に出ていくのか。
小説が生まれる世界を描いた『書くなる我ら』の舞台は文芸誌だ。なるほど文芸誌は絞りたての小説が読める。単行本として書店に並ぶ前の、大きな文学賞を獲る前の、あるいは文学賞受賞後第一作が並ぶ。まさにベテラン作家と新人作家による小説の最前線。しかもそれが毎月刊行されていたりする! ああ進行管理や受発注はどうなっているんだろう……(本作は「仕事」のマンガでもある)。
そして作家が物語を作る瞬間のまばゆさ。
ということで、作家が物語を書くことと、その物語が小説という形をとって世に出ていくことを群像劇形式で描いている。とても丁寧なマンガだ。
本作の中心的人物は文芸誌「群青」の編集者“天城勇芽(あまきゆめ)”。文芸編集者である勇芽の仕事の一部はというと、
校了週はてんてこ舞い!
そんな勇芽の文芸編集者としてのモットーはこちら。
確かにどちらもないと続かない。勇芽がこの考えを口にするとき、本当に迷いのない目をする。彼女の「経験」によるものだ。
勇芽は新雑誌のデスク候補になる。デスクはその雑誌の「指揮官」だ。
若い世代向けの新しい文芸誌で、誰に小説を書いてもらう? 勇芽の頭に浮かんだのは作家ではなく“ある人”だった。
創刊号に載せる小説の書き手を探しに勇芽は岩手へ向かう。岩手は勇芽が中高の4年間を過ごした土地だ。そして当時「創作のおはなし」を聞かせてくれた“瞬くん”がいる場所。
10代の勇芽は瞬くんの「おはなし」に夢中だった。他のどんな小説よりも続きが知りたかったのだ。
探し当てた瞬くんは酪農家になっていた。そして小説家としてデビューはしていないし、そのつもりもないけれど、今も時々「おはなし」を作っているという。その「おはなし」は、やはり勇芽の心をわしづかみにする。
小説家誕生の瞬間か!? でも勇芽の興奮を前に、瞬くんの反応は意外なものだった。
一筋縄ではいかない。これは本作の面白さそのものだ。いろんな人間の心が私の考えもしない方向にゆれる。
小説を書こうとしたけれどすぐには書けなかったり、どうしても筆が止まってしまったり。それぞれの小説家が身を置く環境や、その内面を丁寧にすくい上げていく。
そして文芸編集者である勇芽のつまずきや心の揺れも当然描かれる。1巻だけで5人の小説家と勇芽は相対する。しかもみんなタイプが違うのだ。
今をときめく小説家にこんなふうに人生を問われたら、なんて答えたらいいの!?
編集者はなぜ作家と膝をつき合わせ話し合い、作家に呼ばれたらかけつけ、寄り添い、とことん小説づくりに関わるのか。ひとりで月まで行けてしまう作家は、なぜ編集者を必要とするのか。本作はその答えを少しずつ確かめていくマンガだ。
私が一番好きな場面だ。小説には正解がないうえに間違いもない。けれど、いい小説が「無」から生まれるわけではないことはよくわかる。少なくとも、この場面のように風が吹き荒れていそうだし、勇芽のような人が物語を追って走っている気がする。
レビュアー
花森リド
ライター・コラムニスト。主にゲーム、マンガ、書籍、映画、ガジェットに関する記事をよく書く。講談社「今日のおすすめ」、日経BP「日経トレンディネット」「日経クロステック(xTECH)」などで執筆。
X(旧twitter):@LidoHanamori