このたび、『四月は君の嘘』が最終回を迎えた。コミックスにして11巻、堂々の完結である。まずは、このことを祝したい。本当におめでとう。よく描いた。よく終わった。作者はもちろん、作品の担当編集者にも、惜しみない拍手を送りたい。
はじまったものは終わるのだから、終わるのは当然だ――多くの人はそう考えるだろう。だが、ことマンガに関しては、「終わる」は言うほど簡単なことじゃない。
たしか映画評論家だったと思うが、マンガは構造的に「終われない」という特徴を持っていると指摘していた。そのとおりだと思う。作品がヒットすればするほど、マンガは終われなくなる。
ヒットするということは、雑誌の根幹となるということである。つまり、雑誌の経済的な柱になるということだ。
それが終了すれば、雑誌は多くの購読者を失う。すなわち、人気作品が最終回を迎えるとは、経済的に大打撃をこうむることを意味するのだ。そんなの先延ばしにして当然だろう。
あえて古い例を出すが、『あしたのジョー』と『巨人の星』を失った「週刊少年マガジン」は大幅に部数を落としたという。
読者にしてみれば当然のことだろう。『ジョー』が読みたくて買っていたのに、もう載ってないなんて。買う意味なんてないよ!
むろん、作品が終わったからといって、作者が死ぬわけじゃない。『あしたのジョー』が終わっても、ちばてつやは描き続けるだろう。雑誌はもちろん、作者に活躍の舞台を用意する。しかし、それが『ジョー』と同じヒット作になるとは限らない。『ジョー』以上の経済的恩恵をもたらしてくれる可能性もないではないが、まったくのゼロ、ないしはそれ以下に終わってしまう可能性も高い。
『四月は君の嘘』は人気作である。テレビアニメ化もされている。できることなら、終わって欲しくない作品だ。引き延ばしたくなる作品だ。
しかし、作品はきちんと語るべきことを語り尽くして最終回を迎えたのである。終わるべきときに終わったのだ。
これが強い意志の産物でなくてなんだろう。作品愛の発露でなくてなんだろう。涙が出そうだ。惜しみない拍手を贈りたい。
『四月は君の嘘』のテーマは、死だ。
主人公は中学3年生。14~15歳である。人によっては、そういう人物がつむぐ物語に「死」は似つかわしくないと感じるかもしれない。
だが、考えてみてほしい。自我に目覚めるのは通常、その年齢なのだ。自我に目覚めるとは、自分は自分であると知り(自分でしかないと知り)、自分は死にゆく存在であると認識することである。
言いかえれば、もっとも「死」に近い年齢。それが『四月は君の嘘』の主人公の年齢なのだ。この作品は、少年の目を通し「死」を描いた作品なのである。
そういう作品が、大人の事情によってずるずると引き延ばされなかったことはとても素晴らしいことだと思っている。
大人の事情って、要するに経済だ。早い話がカネのことだ。
誰もがくそったれと思っていながら、決して逃れることができないもの。それが経済だ。そんなもんに足をとられなくて本当によかった。
作者・新川直司氏の次回作に、おおいに期待したい。『四月は君の嘘』で、少年の愛と死を描いた作者が、次に何を生み出すのか。心から楽しみにしている。
レビュアー
早稲田大学卒。書籍編集者として100冊以上の本を企画・編集(うち半分を執筆)。IT専門誌への執筆やウェブページ制作にも関わる。日本に本格的なIT教育を普及させるため、国内ではじめての小中学生向けプログラミング学習機関「TENTO」を設立。TENTO名義で『12歳からはじめるHTML5とCSS3』(ラトルズ)を、個人名義で講談社ブルーバックス『メールはなぜ届くのか』を出版。いずれも続刊が決まりおおいに喜んでいるが、果たしていつ書けばいいんだろう? 「IT知識は万人が持つべき基礎素養」が持論。