この作品が勝ち得た高い評価については、ここであらためて述べる必要はないだろう。マンガ大賞、『このマンガがすごい!』、講談社漫画賞を受賞し、手塚治虫文化賞も最終候補作になっている。テレビアニメ化もされたし、イラストが描かれたローカル電車も走った。掲載誌『BE・LOVE』の屋台骨となり、作者・末次由紀にとっても最大のヒット作となった。
特筆すべきは、手に汗握る熱いストーリー展開である。「最近の少年マンガには燃えられなくて」とぼやいているアナタ、『あしたのジョー』に、『ドカベン』に、『キャプテン翼』に魂の燃焼を感じていたアナタ。いいから黙ってこの作品を読みなさい。ここには、アナタがマンガに求めるすべてが表現されている。
もはや知る人ぞ知ることだろうが、作者である末次由紀さんは、ある事件によって糾弾された経歴の持ち主である。事件の内容はけったくそ悪いので記さないが、かなり大きく報じられた。たぶん、ほかにネタがなかったんだろう。
そのとき、末次さんはもうダメだろうと思った。別の仕事を探すほかないと思った。たぶん、本人もそう考えただろう。泣き濡れる女流作家の姿も想像した。
ところが、末次さんは終わらなかった。『ちはやふる』は、これまで彼女が描いたどんな作品より熱かったし、テクニック的にも向上していた。表面的にはわからないが、彼女の経験も、作品に生かされているにちがいない。
「『ちはやふる』の作者はね、例の事件で話題になった人なんだよ」
訳知り顔でそう言ったとき、知人が浮かべた驚きの表情を忘れない。彼女は世評どおり、末次さんを犯罪者だと認識していた。そういう人が、クリーンヒットをかっ飛ばし、賞賛されている。敗者が復活している。そんなことはあり得ない。すくなくとも、彼女の世界はそんなふうにできていた。たぶん、多くの人が同じように感じたことだろう。
落語に『千早振る』という噺がある。この作品と同じく、在原業平の歌からテーマをもらっている。
大好きな噺なんだけど、あまりにもくだらないので、ここにストーリーをくりかえすつもりはない。幸いにもYouTubeに名人が演じたやつがいくつもあがってるから、それを聞いてもらえばいいだろう。
彼らのうち、2人が人間国宝に認定されている。生きながらにして宝だぜ? すごいことだよ。
マンガの『ちはやふる』、落語の『千早振る』。それぞれに接しているからだろう。日本は本当にいい国だなあと思う。敗者復活が許される国。くだらないことをしゃべってても国宝になれる国。そういう国に生まれたことを心から感謝している。また、2つの芸能を享受できる感性が自分のうちに備わっていることもありがたいと思っている。これは日本に生まれ育った者の特権だ。
ただし、ひとつだけ理解しておく必要がある。
日本は敗者復活が許される国だし、くだらないことしゃべってたって人間国宝に認定される国である。素晴らしい国なのだけど、これを受け取ることができるのは「優れた人」だけだ。
末次さんはマンガ家として優れているから復活したのだし、小さんや小三治は話芸が優れているから宝になった。
彼・彼女がした努力や精進は目に見えないが、人並みはずれたものがあったのだろう。それがあるからこその復活だし、国宝認定だ。カンチガイしちゃいけないぜ。自戒も込めてそう思う。
レビュアー
早稲田大学卒。書籍編集者として100冊以上の本を企画・編集(うち半分を執筆)。IT専門誌への執筆やウェブページ制作にも関わる。日本に本格的なIT教育を普及させるため、国内ではじめての小中学生向けプログラミング学習機関「TENTO」を設立。TENTO名義で『12歳からはじめるHTML5とCSS3』(ラトルズ)を、個人名義で講談社ブルーバックス『メールはなぜ届くのか』を出版。いずれも続刊予定。「IT知識は万人が持つべき基礎素養」が持論。