追放された名家の令嬢、大罪人を買う
「ほんとはね」と、誰かに言いたいことがあるけれど、そんな誰かなんていなくて、ひたすらひとりぼっちの人というのは、こういう顔をするものなのだなと『雪と墨』1話を読むと思う。
極寒の僻地に向かう列車のなかで2人は目も合わせない。2人ともぞっとするほどひとりぼっちなのだ。
男の手に刻まれているのは人殺しを示す入れ墨。彼は向かいの座席にいるうつろな女に買われた。買われる前は処刑されようとしていた。
とある村の住民50人を殺し、遺体に火を放ったのだという。女は「買い取ります」と名乗り出て、そんな男を大金で買った。なんでわざわざ。というか、買えるものなんだ!? というのはさておき、大罪人とはいえ安くはなさそう。そして、このマンガの世界でもこれは趣味のよい買い物ではないようだ。
“ギブソン家のご令嬢”である“フレイヤ”は、ご令嬢だからそれだけのお金を払えたけれど、なんだか誰からも大切にされていない様子。そんな彼女が処刑寸前の殺人犯“ネネオ”を買った目的は?
ドロドロ劇の始まりか。ところが『雪と墨』はそんなありがちな復讐劇には転がらない。
他に当てがない2人
フレイヤは、実家の財閥をうまく切り盛りできず、跡継ぎ争いに負けて家を追い出された。
家の中にも家の外にも彼女を恨む人間が大勢いる。ネネオは、ある事情により故郷の村で50人を殺してしまった。
このマンガの世界にSNSはないけれど、もしもあったら心ゆくまでボコボコにされていただろうなと思う2人だ(実際、街角で彼らは酷い扱いを受ける)。
大罪人を買うというフレイヤの「お買い物」は、そんな現実へのヤケクソ気味のカウンターパンチだったのかもしれない。
ヤケクソすぎて空振りに終わるところも、いかにも追い出された令嬢らしくて悲しい。こうしてフレイヤの本来の目論見は大きく外れてしまうのだが……。
あれっ? なんかいい感じ?
フレイヤとネネオはこんなふうに同じベッドで眠る仲になる。こうなるまでにそう時間はいらなかった。が、ひとりぼっちじゃなくなって世界がキラキラのバラ色になるかといえば、そうでもない。とても厄介で切ないマンガだ。
初めてできた好きな人のためにフレイヤはローストビーフを作ってみるけれどネネオは食べることができなかった。食べたかったんだけど、体が受けつけない。
自分たちを深く傷つける現実から遠く離れて、恋しい相手と「あなたさえいたらいい」と呼び合うだけで生きていけるわけじゃないし、かといって現実とどう向き合ったらいいんだろう。ということで、ここからが『雪と墨』の本番だ。
過去に足を踏みいれる
フレイヤとネネオは、ふたりっきりの世界と、それぞれが抱えてきた現実を不器用に行き来する。
例えばフレイヤには婚約者がいた。今はもう家を追い出されてしまったし、何よりネネオと一緒にいる。だから婚約破棄のお詫びに出向くが……?
婚約者の“ハルバード”は頭を下げるフレイヤに向かってエグいことを言っているが、私は彼を「ハルバードさん」と呼びたいくらい気に入っている。
そう、ハルバードさんしかり、フレイヤとネネオの関係しかり、『雪と墨』の名の通り物語が進むにつれ印象がガラッと変わるのだ。しかも碁石のように白と黒で明快に分解できない。
それはネネオが抱える大罪もまた同じだ。
当時あったことは現実だけど、今フレイヤと一緒にいることも現実で、読んでいるこちらとしてはそこにだいぶ救われる。
ひとりぼっちだったときのフレイヤはこんな顔しなかったもんなあ……。
やがてフレイヤも自分を追放した実家へ「ある目的」のために舞い戻る。後ろにいるのはネネオ。おそらく「その罪人、私が買い取ります」と手を挙げたあの頃は、まさかこんなことになるなんて誰も想像もしなかったにちがいない。