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【まとめ】知の巨人・柳田國男が死ぬ前に伝えたかった「人間とは何か」
昭和34年(1959年)、83歳になった柳田國男は、神戸新聞の依頼に応え、口述をはじめる。テーマはおそらく、「半生をふりかえる」といったものだったろう。神戸新聞としては早い話が柳田國男自伝をつくりたかったのだし、柳田もその点には同意していたものと思われる。
『故郷七十年』とは、故郷を出て播州に移ってからの七十余年を語ったもの、といった意味である。年齢にすれば10歳前後、そこから語りはじめますということだ。新聞連載であるため、各項目がテーマごとに簡潔にまとめられている。おそらくは柳田の数多い著書の中で、もっとも親しみやすいもののひとつだろう。
新聞が自伝を求めるのは、ある意味で当然ともいえることであった。柳田國男という人は、ジャーナリスティックな興味をかき立てずにはいられない人なのである。
柳田といえば民俗学者と認識されている。事実そうだし何ら誤りはないのであるが、もうひとつ記憶にとどめておいて欲しいのは、民俗学は、柳田以前には存在しなかったということだ。柳田が創始し、広め、定着させた学問。それが民俗学だ。
民俗学は、今なお柳田の亡霊にとりつかれている──などと言ったら民俗学者に怒られそうだが、そのようにしか見えないのだから仕方がない。民俗学の発展は、柳田の研究の後継をするか、誤謬を訂正するか、大概どちらかでしかあり得ないからだ。『東北学/もうひとつの東北』のレビューでふれた赤坂憲雄の東北学にしても、柳田を否定する(誤謬を訂正する)ところからはじまっている。民俗学にとって柳田とは、それほどに巨大な存在なのである。
一方、柳田という人は文壇との関わりも浅からぬ人であった。知己に森鴎外があったほか、田山花袋や国木田独歩とはかなり親しい友人づきあいをしている。また、島崎藤村作詞の有名な唱歌「椰子の実」は、柳田が島崎に語ったことがそのまま歌になっていると言っても過言ではない。自伝をつくるならば、こうした関わりもぜひ載せたいところである。
さらに、彼は高級官僚だったのだ。貴族院書記官長を経て枢密顧問官に就任している。どちらも現在はない官位だから、どのくらいエライのかは想像するしかないが、役職名だけ見るとそうとうにエラそうだ。やがて彼は研究を優先するため退職するが、そのへんにも生々しいエピソードがありそうで、野次馬的興味はどうしたってつのる。
民俗学の創始者にして大学者、文壇のご意見番、高級官僚。3つもテーマもあれば、記者なら誰だってその横顔を知ってみたいと思うだろう。どうすればこういう人ができあがるのか、興味を抱かずにおれないだろう。
本書の筆記を担当した記者にも同じ思いがあった。また、このとき柳田はすでに齢80を越えており、もはや今日のごとくに明日があると言える年齢ではない。記者には「聞いておかなければならぬ」という強い使命感があっただろうし、柳田も「語っておかねば」と感じていたはずだ。つまり『故郷七十年』とは、そのようにしてできあがった本なのである。
とはいえ、両者の思いには大きな齟齬があった。記者はあくまで「自伝」であること、「故郷七十年」を語ってもらうことを要望していた。しかし、柳田は故郷七十年と同じかそれ以上のウェイトで語り残しておきたいことがあったのだ。結果、『故郷七十年』は、自伝みたいなところもあるしそうじゃないところも多い、ミョーな本になってしまった。誤解がないように言っておくが、私はこの本をけなしているんじゃない。ほめているのだ。こんな本なかなかないぜ。
まず、柳田には『柳田國男文芸論集』でカラスヤサトシさんが楽しいマンガにしてくれたような、文人との決別劇が多くある。本書では、それらは一切ふれられていない。にもかかわらず記者は文壇との交流話を求めているから、結果として大事なところがポッカリ抜けた、中途半端なものができあがってしまった。前知識なく読めば「どうやらこの人は文壇に関わりがあったようだ」という、不確かな印象が残るばかりだ。これは官僚としての進退についてもまったく同様である。まあ、80を越える老人に「島崎藤村との決別について語ってください」なんてぶしつけな質問ができるわけがない。聞き書きの限界だろう。
あきらかに聞き手が用意したテーマからはずれているように思われるのは、本書の4分の1を占める「私の学問」という章である。
この章には、コケシだとか河童だとか、民俗学の研究テーマが列挙されている。興味深いものも多いし、一般読者に配慮したのだろう、難解なものはひとつもないが、ふつう「自伝」と呼ばれるものにこの記事はそぐわない。北は北海道、南は沖縄、日本全国あらゆる場所がテーマになっているのだから、「故郷七十年」ですらない。「民俗学的に興味深い話」でしかないのだ。
おそらく、柳田國男には、民俗学の後進に言い残したいという強い気持ちがあったにちがいない。自分にはもはや研究する体力も時間もない。どうかこのバトンを受け取ってほしい。そんな老人の悲痛な願いを、どうして本のテーマにそぐわぬなどというチンケな理由で止めることができるだろう。
もうひとつ、柳田には伝えておきたいことがあった。
彼は生涯著作の絶えなかった人だが、この本では驚くほどそのことにふれていない。まるで本とは無縁な半生を送った人のように、自著については語らなかった。
唯一の例外が『山の人生』である。この若き日の著書について、彼は、なぜ執筆に至ったか、さらには内容の紹介まで子細に述べている。
なぜ『山の人生』が特別扱いされたのかといえば、この本が「民俗学の本」ではないからだ。継承できる内容ではなかったからである。
『山の人生』のもっとも人目にふれやすいところに配置した話を、柳田は『故郷七十年』でも繰り返している。同じ話を朝日新聞にも寄稿しているそうだから、彼はつごう3度もこの話を印刷物にしているわけだ。それほどにこの話を知って欲しかったのである。
それはこんな話である。官僚だった柳田が、仕事上の必要にかられて資料に目を通していて知った話だ。
山中で父親と兄妹が3人で暮らしていた。3人は父親の営む炭焼きで暮らしていたが、どうしても炭が売れなかった。生活は苦しくなり、ひもじさはつのる。その日も里に出たが、炭はまったく売れなかった。飢えた我が子の顔を見るのがつらくて、顔を合わさずにふて寝していると、兄妹が斧をといでいた。その斧を父親に手渡して、みずからは横たわって兄妹は言った。「おとう、これで殺してくれ」。
父はわけがわからなくなって、斧を振り下ろし、2人の子を殺したかどで逮捕された。(つたない要約でたいへん気がひけるので、お時間あれば原典に当たっていただきたい。『山の人生』は青空文庫で無料で読むことができるし、この話だけならば1分かからずに読める)
兄妹は、なぜ殺してくれと言ったのか。父親はなぜ斧をふるったのか。この不幸な事件はどうして生まれたのか。こうした問いに答えるのは、民俗学ではない。あえて柳田の半生にそれを語り得るものを探すならば、文学しかない。
『故郷七十年』は、「自伝」と言い切るにはあまりにいびつな本である。しかし、ある老人が辞世に際し、語り残したかったことをまとめた本だと考えれば、これほど興味深い本もない。
ある作家が、「文学とは、すべて誰かに向けた手紙である」と語っていたのを思い出した。今、自分は柳田國男の最後の手紙を受け取ったような気がしている。
- 電子あり
「幼い日の私と、その私をめぐる周囲の動きとは八十余歳の今もなおまざまざと記憶に留って消えることはない。いつかそのころに筆を起し私自身の足跡とその背景を記憶するならば、或いは同時代の人たちにも、またもっと若い世代の人たちにも、何か為になるのではないか」
その言葉どおり、本書は近代日本の知識人の自己形成の物語、明治文学史の重要な一部、民俗学の誕生を語るものとなりました。数ある自伝、回顧録のなかの白眉を文庫本でお届けします。
レビュアー
早稲田大学卒。書籍編集者として100冊以上の本を企画・編集(うち半分を執筆)。日本に本格的なIT教育を普及させるため、国内ではじめての小中学生向けプログラミング学習機関「TENTO」を設立。TENTO名義で『12歳からはじめるHTML5とCSS3』(ラトルズ)を、個人名義で講談社ブルーバックス『メールはなぜ届くのか』『SNSって面白いの?』を出版。「IT知識は万人が持つべき基礎素養」が持論。2013年より身体障害者になった。
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