どこか別の世界へ行くタイプのおとぎ話やファンタジーの主人公は、元いる世界で祝福されていないことが多い。全部が全部最低最悪なわけではなく、いいことだってあるけれど、何か非常にままならない厄介ごとや制約が主人公の隣から離れようとしない。だから遠い世界に行って、そこでありのままの自分を見つけることで成長し、救済されていく……はずなのだが、本作の場合はどうなるのだろう。
『水の底にも春はくる。』の主人公“ハル”は生まれつき魅惑的な人間だった。いわゆる「モテ」とはレベルがまったく違って、それはハルを幸福にはせず、むしろ不幸ばかり呼び寄せる。
ハルを見る人はみんな目の奥がハートになってハルにグイグイ近づいてくる。ハルのことなどおかまいなしに、ハルの心が何も動いていないとしても、相手はハルに執着する。つまりそれはまともなコミュニケーションではないのだ。
誰からも見られない世界に行ってしまいたいとハルが思うのも無理はない。18歳になって大学生となってもハルの魅惑体質は変わらず、むしろ厄介ごとは増える一方。だからサークルになんて全然入る気もないし、飲み会もパス、言葉だってロクに交わさない。
でも1週間前から“あるひと”がハルの部屋に転がり込んでいて、なんだか普通に暮らしている。
蛸の半魚人だ。名前は“ナミマ”というそうで、海っぽくていい名前だと思う。で、ハルは帰宅するなりナミマから熱烈歓迎を受けている。蛸が人間サイズになって抱きつくとこんな感じなのかあ……。
ところで、人間といるときよりもハルの表情がやわらかい。ナミマとハルは、出会った直後から普通に会話ができている。ナミマは、人間がハルに向けるようなハートの目をしていない(人間じゃないもんなあ)。そしてハルはナミマの異形の姿が怖くない。ということで、自然なコミュニケーションが成立している。
そして蛸の半魚人のナミマは竜宮城からやって来たのだという。
ナミマはハルが大学に行っている間はお留守番をしているらしい。
この2人の生活がなんとも楽しそうなのだ。見飽きない。
お風呂場で蛸踊りこと吸盤のお手入れをしたり。なお、このお手入れはファンタジーではなく実際のリアル蛸もやっていることだ。本作は蛸の生態のマメ知識もちょいちょい教えてもらえる。
そして生活といえば食事。
食事とは無縁の世界で生きてきたナミマは、ハルのおかげでごはんが大好きに。レシピ本を読みあさり「たこやき」が食べたいとねだっている。かわいい。
そしてハルはちゃんとナミマのリクエストに応えてあげる。
生まれて初めてのたこやきは泣いちゃうくらい熱かった。ナミマは泣き虫なのだ。ハルと初めて会ったときも、ナミマは“人間の友達”とはぐれて「ええ~ん」と泣いていた。体は大きいし半分は蛸だけど、ナミマは天真爛漫で好奇心旺盛で感情がストレート。無垢な生き物だと思う。
きっとお互いが心地よく思っていて、読んでいるこちらもずっとこんな生活が続けば楽しいのになあ……と思うが、ナミマは竜宮城に帰らないといけないらしい。
蛸の恩返しに、ハルは何をお願いするのか。
ハルのこれまでの人生を知っているならば、おそらく答えはすぐに出るはずだ。
ハルは竜宮城に行きたいと願う。ナミマいわく、竜宮城には人間がいないらしい。つまりハルを見て目がハートになって大変なことが起こるようなリスクは、竜宮城にはない。自分がただそこにいるだけで悲しいことが起きてしまうなら、笑うことすらガマンしてしまうなら、そんな世界からは遠ざかりたい。
ハルの切羽詰まったお願いを、ナミマはお安い御用ですとアッサリ引き受けてくれた。次の満月がきたら2人は一緒に竜宮城へ行くのだという。
ところで浦島太郎のお話では、浦島太郎の「最初の旅立ちの理由」には、彼自身の不遇は特になかったはずだ。親切なナイスガイが竜宮城へ行きパーティー三昧ののち、もとの世界と大きく引き離され、ここでやっと不遇の身となり、やがて玉手箱をあけて白髪の老人に変わる。時空旅行とメタモルフォーゼの物語だ。
ハルの竜宮城行きにも何かそんな仕掛けがあるんじゃないだろうか。だって今のままじゃハルの人生あんまりなんだもの。そして人生が変わるときは、たぶん環境だけでなく自分自身の何かも変化することになる。本作に登場したある映画作品もたしかそんな物語だった。ということで2巻が楽しみだ。
レビュアー
花森リド
ライター・コラムニスト。主にゲーム、マンガ、書籍、映画、ガジェットに関する記事をよく書く。講談社「今日のおすすめ」、日経BP「日経トレンディネット」「日経クロステック(xTECH)」などで執筆。
X(旧twitter):@LidoHanamori