ラーメン店主のじいさん紅烈土の一家言がおもしろい。たとえば自分の店(清蘭)のラーメンは「引き算の技」とよび「引き算は足し算よりほんのちょこっとだけ高度なんじゃ」という。
彼はテレビで見た他店のカゴの湯切りを「“茹で方”より“切り方”に凝ってどうする」
とそのパフォーマンスぶりに苦言を呈するようなラーメン一徹じいさんです。けれど連れ合いの圭子さんの死後、清蘭の味は落ち、客足も遠のき、店も自分の人生も閉じようとしていました。
その時、飛び込んできた孫娘・茉莉絵の自殺未遂事件……。一命を取り留めた茉莉絵が口にしたラーメンのスープ。その味に魅せられたところからこの物語の本線は始まります。
本線というわけは、新疆ウイグル自治区で遭難した料理研究家の赤星亘と彼を助けたタジク族の青年カシムとの話がサイドストーリーとして描かれているからです。赤星と清蘭のラーメンとの因縁が物語の最後に待っています。
さて、ラーメン作りに目覚めた茉莉絵ですがなかなか思うようにはできません。じいさんは圭子さんの作り方を彼女に伝えます。「“全部自分で食べたい”という想いで作っているということじゃ」そして「“食欲”という才能」が必要だということを……。
というじいさんの言葉にかつての親友で自殺の原因になったコジマを思い出した茉莉絵は日本一のラーメン屋を作るという自分の夢の実現のため彼女を仲間にするのです。
こう文章にするのがまだるっこしいくらいテンポのいいストーリー展開、随所にちりばめられたユーモアがこの作品を一気に読めるものにしていると思います。映画的というよりどこか舞台的な感じがしてくる作品です。(宝塚風?)
また、ややもするとドタバタになりそうな展開を締めるのが赤星とカシムの対話です。
日本の鳥インフルエンザによる鶏の大量死、その処分を見て「この世のものとは思えないほどの禍々しさに満ちていました……」と厭悪感を感じたカシムは赤星に、遊牧民とはどのような生き方をしているのかを教えてくれます。
それは赤星に生と死、そして食というものを考え直させるものでした。「夜の高層ビル群を見た時に“私とはいったい何なのだろう”と思ったものです」というカシムに導かれるようにして……。
さてコジマが加わった新生・清蘭の味は……。「麺の時代」の到来を宣言するじいさんの心(脳裏)に浮かんでいる味を茉莉絵とコジマのコンビは実現できるのでしょうか?
「“不器用の一心”と“とんでもない食いしん坊”の組み合わせか……」
その二人の姿の背景に『財産がなくても貧しいとは限らない 友達がいないのは間違いなく貧しい人だ』というタジク族の言葉が木魂しているように思います。
ラーメン好きはもちろん、あまり食べない人もこの清蘭のラーメン(何ラーメンがいいか読んでのお楽しみです)は食べたくなると思います。
ところで、この本、カバーをはずすとそこには……。
レビュアー
編集者とデザイナーによる覆面書籍レビュー・ユニット。日々喫茶店で珈琲啜りながら、読んだ本の話をしています。