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私はなぜ「感染症」小説を書いたのか。『臆病な都市』著者エッセイ
砂川文次
存在しないはずの感染症を巡って
初めに意図していたことと全く違う方向に話が流れていってしまう、という現象は結構身近に転がっている気がします。
この『臆病な都市』という小説は、存在しない感染症を巡って個人や集団や組織があれよあれよというまに誰しもが意図していないどこか遠くに流されていく、そんな小説です。
存在しないものに振り回されるなんて、これほどばかばかしいことはありませんが、身の回りを眺めてみると意外とこの「ない」というのが至る所に身を潜めている気がします。この「ないのにあるもの」に対する私の執着が着想といえば着想なのかもしれません。
自衛隊の演習で考えたこと
唐突ですが、私はかつて六年ほど自衛隊にいました。色々な業務がありましたが、ここでは一つ、演習のことに触れたいと思います。
大抵の演習には敵の存在が必要になってきます。
対抗部隊(=敵)役がいれば一番ですが、そうでないこともしばしばです。そういうとき、自衛隊(に限らず他国軍も同様)で用いられるのが設想という概念です。例えば内陸部に駐屯する部隊が着上陸侵攻対処を訓練するとき、演習場のある点からある点までを線で区切って、ここから先は海になります、そしてここにこういう規模の敵がいます、と示すわけです。実在する森を海に見立て、存在しない敵をそこに打ち立てることによって、初めて部隊は演練項目=着上陸侵攻対処を行いうるわけです。
「この白い線の外は海ね!」、と子どもたちが下校中とかにやる遊びに、当人たちが「本当にそういう風に振る舞う」、という点においては似ているかもしれません。
阿呆らしいな、と内心思ってはいても仕方がありません。「海じゃないし鮫もいないよ。ただのアスファルトじゃん」、と言って白線からはみ出す子が一人でも出たら、ゲームが台無しになるのと同じで、与えられた敵を観念しない隊員がいると訓練の意味はなくなってしまいます。本当はいないのにな、とばかばかしく思いながらもそのように振る舞うことが大切なのです。
子どもの世界とは違って、大人のほうはルールに従わない者が出ると困るので、それを指導する者や別の規則なりなんなりを練り上げる入念さと悲しさが伴っていますが。
白線の外は海だよ、というルールに対して、眼前に広がる下校路を海にしてしまえる力が人に宿っているのか、言葉の方に宿っているのか、あるいはその両方なのか私にはわかりませんが、この作用はとても面白いものだと考えています。
そしてその作用について未だ解き明かせずにいて、折り合いがついていないという私の実相が、これに執着させる根本であり、何かを書く原動力なのかもしれません。ここに挙げた経験や気づきみたいなものを明確に意識して『臆病な都市』を書いたのかどうか、今となっては分かりません。ですがこの作品にも、現実とルールの往還というのがあり、これは先の白線遊びの延長線にあるものなんじゃないかな、と思ったりもします。
「姿を変えた日常」と言葉
私が、そんな存在しない感染症に右往左往するでも立ち向かうでもなく、ただ淡々と日常を営む小説を書き上げたすぐ後に、現実の方では実際に存在する感染症が瞬く間に世界各地に拡がっていきました。
この日を境に、それまであった日常はすっかり変わってしまった、というような言葉を耳にする機会も増えました。ただその一方で「数百年に一度」、「歴史的」、「これまでにない」といったうたい文句を冠された事象が何度も私たちの前に現れては消えていったような気もします。
私は、私たちを取り巻く有象無象がそうした事象の前後で本当に変わったのかどうかを断ずることはできません。ただ、それらについて回る文言が招来する「作用」については、幼いころにやった白線遊びやごっこ遊びなどでとっくに体験をした覚えがあります。つまりは住宅街を壮大な海にも恐竜が闊歩する原生林にも変え得る力がどこかに存在している、ということです。
そうなってくると、日常は歴史的出来事を必要とせずとも、こちらの認識一つでいつでもあっけなく姿を変えたように見えるものなのかもしれません。
さて、作品の紹介をしていたつもりでしたが、どうも妙な方向に話が流れてしまいました。この『臆病な都市』にそのような何かが「ある」のか、はたまた「ない」のか私にはよくわかりませんが、一人でも多くの方に読んでいただければ幸いです。
(すなかわ・ぶんじ 作家)
読書人の雑誌『本』2020年8月号より
- 電子あり
新型コロナ感染拡大の前に書かれた、新鋭による問題作。
鳥の不審死から始まった新型感染症流行の噂。
その渦中に首都庁に勤めるKは巻き込まれていく……。
組織の論理と不条理、怖れと善意の暴走を生々しく描く傑作。
まったく、なんだってあんな根拠のないものにそうすぐ振り回されてしまうのだろう。
それとも本当に、ただ自分のあずかり知らぬところで未知の病気が広まりつつあるのではないか、とも考えてみたが、やはり実感は湧かない。
家々から漏れる灯りがそこここに生活が在ることを教えてくれる。言い知れぬ不安が、影のように自分のあとを追ってきている気がした。 ――本書より
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