古い木造校舎から聞こえるピアノの音
京本大我さん主演の映画「言えない秘密」のコミカライズ作品である『言えない秘密』。映画を見たあとで、ウルウルしながらおうちで本作を読むか、先に読んで心の準備をしてから映画館に向かうか。どちらも楽しいはずですが、どのみち泣きます。
この作品が抱える「秘密」や映画のネタバレにならないように、このマンガから漂う空気のロマンティックさを語らせてください。このコミカライズを手掛けた倉地よね先生の『あざ恋』で感じた「言えそうで言えない絶妙な間」が本作でも発揮されています。
物語は主人公の湊人の帰国から始まります。音大のピアノ科に通う湊人は、イギリス留学を早めに切り上げて学校に戻ってきました。
なんだか心ここにあらずな湊人は、木造の旧講義棟から聞こえてくるピアノ曲に耳をとめます。今はもう使われていない古い校舎で、海外留学するくらいピアノに通じているはずの湊人が知らない曲を、魅力的に演奏する弾き手は誰?
グランドピアノの前にいるのは一人の女の子。大学のクラスメイトでしょうか。
初対面は一瞬。そして湊人は「演奏していたのはなんて曲?」と尋ねようとして言えずじまい。彼女はどこかへ行ってしまいます。
その後、大学の構内でときどき姿を見かけるように。
曲名は教えてくれないし、湊人は名乗ったのに雪乃はこのとき名前すら教えてくれない! 秘密主義というか捉えどころのない雪乃は、砂粒サイズくらいの小さな違和感をあちこちに残します。このかすかな違和感にずっとソワソワするマンガなんです。秘密がありそうなのはわかるけれど、それがなんなのかわからない。
そして湊人もまた、あるわだかまりを抱える人物です。留学をさっさと切り上げて「ピアノはもうやめる」なんて言ったのはなぜ?
本当は学内で一番ピアノ演奏がうまいかもしれないのに(この“ピアノ王子”との演奏対決は必見です。ピアノ王子の様子が絶妙におもしろい)。何か心に傷を負って、それでピアノから遠ざかろうとしています。
あの知らない曲を弾いていた子に会いたいのに、全然会えない。同じ音大に通っていそうなのに。
……と思ったら急に湊人に会いに来たり。そしてやっと雪乃は自分の名前を湊人に教えてくれます。
名前を教えない失礼な態度や、その言い訳も、あとになって読み返すとじんわり胸にくるポイントです。
ピアノに全力で向き合えない湊人と、個人レッスン中心だといって大学にはあまり姿を見せない雪乃。お互いのなかで足りないものが、二人でいると埋まっていくような優しい時間が流れます。
そう、雪乃は湊人をふわふわと振り回してばかりだけど、なんだか居心地がいい。あとピアノを弾く湊人が楽しそう。
春、夏、秋、冬と季節を重ねていくうちにどんどん惹かれ合う二人(デザート読者もにっこりの展開がたくさん!)。
そして二人の物語は、音楽に例えるなら幸福のピークから急に転調を迎えます。ある日を境に、雪乃は湊人の前から姿を消してしまうのです。避けられてる? 自然消滅? いやまさか。それに湊人にとってすごく大切な瞬間には、雪乃は一瞬だけ現れたりするんです。たとえば湊人がトラウマを乗り越えてピアノともう一度向き合ってコンペに参加した日とか。
大好きな人が弾くショパン、聴きたいよね。でも雪乃の抱える「秘密」は、もう隠せないくらい大きなものになっていました。
ピアノの音色に合わせた優しいラブストーリーなのに、かすかな違和感と切なさが少しずつ積み上がって、それらがラスト向かって一気に流れ込んでいくマンガです(そこも音域が広い楽器であるピアノっぽさを感じさせます)。
108歩をきちんと数えて歩くなんて、どれだけ神経を研ぎ澄まして湊人のいる場所に向かっていたんだろう。切ない。この作品の中で私が一番好きな「秘密」です。
二人の奏でた時間が読み終わったあともじんわり胸に響きます。どうか耳をすますように読んでみてください。
レビュアー
ライター・コラムニスト。主にゲーム、マンガ、書籍、映画、ガジェットに関する記事をよく書く。講談社「今日のおすすめ」、日経BP「日経トレンディネット」「日経クロステック(xTECH)」などで執筆。
X(旧twitter):@LidoHanamori