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全盲の主人公。現れた兄は偽物なのか──満場一致の江戸川乱歩賞受賞作!

闇に香る嘘
(著:下村敦史)
2016.10.08
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『闇に香る嘘』は、第60回江戸川乱歩賞受賞作品。2014年に単行本として刊行され、今年8月に文庫化されました。
 
文庫本の解説を担当されたのは、本格ミステリ界の大御所、日本のエラリー・クイーンこと有栖川有栖(ありすがわ・ありす)さんです。解説によると、『闇に香る嘘』は乱歩賞の選考委員全員が満場一致で推した作品だそうです。おそらくですが、近年の乱歩賞では珍しい。それだけ期待された小説であり、選考委員を務められた有栖川さんは「相対評価ではなく、絶対評価でA」と絶賛しています。

確かに2年前に単行本が出たときから、たいへん話題にはなっていました。「週刊文春2014ミステリーベスト10」国内部門で第2位、「このミステリーがすごい! 2015年版」国内編で第3位にランクインしたことからも評価の高さがうかがえます。
 
そもそも、主人公の設定からして、特異です。

元カメラマンの村上和久(むらかみ・かずひさ)は69歳。41歳の頃に失明して以来、両目がまったく見えません。身勝手な性格が災いし、妻とは離婚。娘にも愛想を尽かされ、孤独に暮らしていた彼は、腎臓移植手術を必要としている孫娘の夏帆(かほ)のために、ふたつある腎臓のうちひとつを提供しようとします。
 
しかし、検査の結果は不適合。手術すらできません。和久の娘で、夏帆の母親である由香里(ゆかり)の腎臓はすでに提供され、拒絶反応が出て1年半しかもちませんでした。ドナーになるには、「血族六親等ならびに姻族三親等」までが条件。夏帆の父親は他人と結婚しているので、ダメです。

そんな、どん詰まりの状況下で和久が思い出したのが、3つ年上の兄、村上竜彦(たつひこ)でした。竜彦は、岩手の実家で母親とふたり暮らし。和久は兄にドナーになってほしいと懇願します。しかし、何度頼んでも、取り付く島もない。せめて検査だけでも受けてくれ、たとえ腎臓が不適合でも謝礼を払うと好条件を提示しても、すげなくあしらわれてしまいます。竜彦には裁判費用が必要で、お金に困っているのに、なぜ……? 
 
不審に思った和久は、兄は偽者なのではないのか、と疑い始めます。そう思うだけの理由がありました。

兄の竜彦は「中国残留日本人孤児──俗に言う中国残留孤児」なのです。中国残留孤児は、「戦前戦中に満州に移民したものの、敗戦のドサクサで置き去りにされ、中国人に拾われた日本人の子供たちのこと」。竜彦は1983年の訪日調査に参加し、母が息子だと確認したことで永住帰国しました。しかしこの時点で、和久は失明しています。つまり、兄の姿を自分の目で確認できていない。母は兄を疑っていないけれど、40年近くも離れて暮らしていた上、DNA鑑定をしたわけでもない。兄は本当に兄なのだろうか? 

これが『闇に香る嘘』のメインの謎です。加えて、竜彦の正体を探ろうとする和久に謎の手紙が届き、正体不明の人物たちが次々と現れては、目の見えない主人公を翻弄し続けます。盲目であるからこそ発生する状況。それが独特の緊張感と魅力的な謎を生み出すのです。
 
ひるがえって、作中のサスペンスとは裏腹に、著者の筆致には抜群の安定感があります。それも本作の大きな長所。盲目の主人公だからこそ、音とにおい、実際には視認できていないものを頭の中でイメージして“映像化”する際の描写は、子細に書き込んだ方がいい。簡単なことではないはずですが、そこがちゃんとクリアされているので、読者としては安心して読めます。神は細部に宿る、の言葉通り、整然と並び立つ参考文献の多さが本作のディテールに貢献しているのでしょう。それらが太い柱となって『闇に香る嘘』というミステリを支えている。文章。プロット。人物造形。作中で扱われる社会問題。それらすべてが高次元に混ざり合った確かな傑作です。

これが新人のデビュー作なのか! 僕は、舌を巻くほかなかったのですが、文庫本の解説によると、意外なことに著者の下村敦史(しもむら・あつし)さんは乱歩賞に挑戦し続けて9年目でようやく受賞に至ったそうです。それまで、最終候補に4回残っている、というのは著者の力量からすれば当然かと思えるのですが、他の新人賞に投稿しても1次予選を通過できなかったというのには驚かされました。

『闇に香る嘘』を書ける著者が1次すら通らないなんて……。その事情は推測するしかありませんが、とにかく理由がなんであれ、著者としてはたいへんショックな出来事だったはずです。これだけ書ける人なんです。

しかし、どんな結果を突きつけられても、下村さんは決して諦めなかった。努力に努力を重ね、挑戦し続けてきた。その忍耐と努力、生真面目さは、間違いなく「実力」として下村さんに還元されたはずです。

──苦労の甲斐あって、作者は充分に熟してから最高のデビューを飾れた──

有栖川さんのこの言葉が、下村さんのデビューを端的に言い表しています。下村さんは大器です。『闇に香る嘘』を読めば、どうしてもそんな感懐を抱きます。大作家を輩出してきた乱歩賞です。いずれ下村さんがそうなったとしても、僕は少しも不思議には思いません。

  • 電子あり
『闇に香る嘘』書影
著:下村敦史

村上和久は孫に腎臓を移植しようとするが、検査の結果、適さないことが分かる。和久は兄の竜彦に移植を頼むが、検査さえも頑なに拒絶する兄の態度に違和感を覚える。中国残留孤児の兄が永住帰国をした際、既に失明していた和久は兄の顔を確認していない。27年間、兄だと信じていた男は偽者なのではないか……。全盲の和久が、兄の正体に迫るべく真相を追う。

レビュアー

赤星秀一 イメージ
赤星秀一

1983年夏生まれ。小説家志望。レビュアー。ブログでもときどき書評など書いています。現在、文筆の活動範囲を広げようかと思案中。テレビ観戦がメインですが、サッカーが好き。愛するクラブはマンチェスター・ユナイテッド。

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