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名探偵を超える「最終探偵」は天然アラサー美女。数理論理学による推理検証とコメディタッチな作風が絶妙なコントラストの第51回メフィスト賞受賞作品

2015.09.24
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最近、『その可能性はすでに考えた』(井上真偽(まぎ)、講談社ノベルス)が発売されて、ツイッターなどで書店員さんの賞賛コメントがよく流れてきます。その井上真偽さんのデビュー作で、第51回メフィスト賞受賞作品でもある本作は、数理論理学という素人には難解な学問を謎解きに用い、しかもその謎解きというのが「名探偵が解決した謎は、はたして正しいのか」を検証するという風変わりな連作短編です。
本書の帯文には「名探偵を超える最終探偵、誕生!」と派手に謳われていて、推理小説好きで本格ミステリの愛読者ならば、この言葉に誘惑されないはずがない。むろん僕もそのうちのひとりで、それが本書を手に取るきっかけだったのですが、実際読んでみると内容(数理論理学に関する知識、それを使った推理の検証)は想像以上で、あまりに凄すぎたので正直に言うと面食らいました。

この本に出てくる個性的な名探偵たちの知を検証する最終探偵の正体は、天才数理論理学者で独身アラサー美女の硯(すずり)さん。その硯さんの甥である大学生の詠彦(えいひこ)くんがいくつかの事件に遭遇し、その事件を解決したと思われる名探偵たちの推理の真偽の判定を硯さんにお願いする、という構成なので物語の構造はとてもシンプルです。しかしそのぶん数理論理学を駆使した推理の検証作業が濃密であり、作中にさも当然のように難解な数式が出てくるので、はっきり言って理系オンチの僕などにはまるきりついていけないレベルでした。もっとも、数理論理学にまつわるエピソードやアカデミックな蘊蓄によって知識欲は絶えず刺激され続け、またミステリファンの中には読書限定でマゾっけのある人も多いはずで、「この、凡人にはさっぱりわからない感」がたまらなくいいのです。
あくまで僕個人の感想ですが、読んでいて、衒学趣味に満ち満ちた小栗虫太郎の『黒死館殺人事件』をふと思い出したりもしました。
『黒死館』と本書はまったく似ても似つかない作品です。『黒死館』のようなペダントリーも感じません。けれども作者の井上さんはおそらく小栗と同じくらい、かなり博識な方なのでしょう。会話の折々に挟み込まれる雑学が物語の中に違和感なく溶け込み、本書に知的な彩りを添えています。学術的な専門知識やその他の多岐にわたる雑学を作中にさらっと挟み込めるのは、作者がそうした情報を自分の中できっちり消化できている証拠。小説の新人賞で「ほとんど資料の丸写しになっていて、文脈の中でそこだけ浮いている」云々という選評をときどき見かけますが、そういう付け焼き刃のつぎはぎ感が一切ない。
しかしこんなふうに書くと、蘊蓄一杯の小難しい小説という印象を受けるかもしれません。けれども井上真偽さんは、メフィストのホームページで次のように語っています。

「数式が苦手な方にも物語を楽しんでもらえるよう目一杯工夫を凝らしましたので、文理を問わず一人でも多くの方に手に取って頂ければ嬉しいです」

「もちろん単に独身アラサー美人目当てでも構いません。どうか一度お目通しください。その上で少しでも数理論理学の持つ深みや驚き、あるいは年上女性から物を教わる悦(よろこ)び、あるいは年下の男子大学生を翻弄する愉(たの)しみを味わって頂けたら幸甚です」

作者のコメントから推察できるかもしれませんが、実は本作はコメディタッチの作品です。そこがおそらくは「数式が苦手な方にも物語を楽しんでもらえるよう目一杯工夫を凝らし」た部分のひとつなのでしょう。実際、硯さんと詠彦くんの、ベタな漫才のようなボケとツッコミは読んでいて楽しかったし、何度も笑ってしまいました。

冒頭でもちょろっと紹介した井上真偽さんの新作『その可能性はすでに考えた』が気になる人は(僕もそうです。このレビューを書いている時点では未読なのでとくに)、その井上さんの原点であるデビュー作にも目を通してみてはいかがでしょう? 一読の価値ありです。とりわけ、作者の手加減なし(?)の数理論理学の知に弄ばれたい人、そうした圧倒的な知的敗北に心地よい読後感を抱いてしまう人は楽しめるはずなので、是非。

レビュアー

赤星秀一

小説家志望の1983年夏生まれ。2014年にレッドコメットのユーザー名で、美貌の女性監督がJ1の名門クラブを指揮するサッカー小説『東京三鷹ユナイテッド』を講談社のコミュニティサイトに掲載。愛するクラブはマンチェスター・ユナイテッド。書評も書きます。

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