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前人未到の軌跡を明かす。熊川哲也、21年ぶりの自伝『完璧という領域』【第2回】

完璧という領域
(著:熊川 哲也)
2019.12.25
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■「動き」を通して先人と出会うこと

まず一つ目、本書では「先人との交感」はおもに「偉大な音楽家との交感」の話として出てきます。楽譜という「先人の痕跡」を読み解き、先人と出会う。でも、「バレエの動き」も先人から受け継がれてきたものであるはずです。

そこで考えたのは、身体から身体へと刻み付けるかたちで受け継がれてきたバレエの「動きの型」のようなものを通して、「ダンサーの先人」と出会うことはないのか、ということです。この区別がいいのかどうか迷いますが、表現の面ではなく技術の面での「先人との交感」についての体験があるならばその話を聞いてみたいところです。

というのは、武道や芸道のような身体で表現する世界には、基本的に、書や陶器や譜のような「先人の痕跡が残されたモノ」がないのですが、僕は、身体の世界においては、受け継がれてきた「型」が「先人の痕跡」であると考えているからです。先ほど「先人の痕跡が身体に残される=身体知」と書いた話です。

出会っていないだけかもしれませんが、武道や日本舞踊などの芸談や聞き書きには「先人との交感」の話はあまり見られません。それでもやはりそこには「先人との交感」がある。そう思っています。それは当の世界の人々にとっては自明のことで、だから学びのことを「稽古」と呼んだ……型は「先人の技や思考の痕跡」であって、その痕跡に真摯に向き合うことで、先人と交感することができる……型の動きを通して先人の感覚や思考を追体験することができる……僕はそんなことを考えてきました。

実際、僕が通う合気道の道場で師範の技を見習うとき、多田宏師範は「外側から形を見るのではなくて、師匠の内側に入り込んでみる。自分がやってみるときはもう2回目だ」という指導をされたりもします。入り込んでみる、見る対象に成ってみる、この「成ってみる」という学びの方法がとても面白いと思って、稽古でもあれこれやってみながら、ずっと考えています。そこで、本書を読んで、特にダンサーの動きにおいて、それを見るとき、熊川さんはどんな見方をするのだろうと考えたりしました。

「それまでバレエの師は、過去に名前を馳せた偉大なダンサーたちだった。ところが次第にバレエに人生を懸けた先人や先輩たちすべてに尊敬の念を抱くようになった。かつてのロイヤル時代の先輩たちが踊っている映像を、以前は自分の能力との優劣を競うような気持ちで見ていたが、今はただ、ああ、美しい、すばらしいダンサーだと感じ入る。」(138-139頁)。こういう箇所を読むと、対立的に相対的に見るようなところは超えておられると感じます。そのうえで、意識的に成ってみようとしたり、むしろ無意識的に成ってしまったり、そんな体験はされてはいないのでしょうかね。実際には会ったことのない偉大なダンサーに、その動きを介して出会うことはあるのか、共に跳んでいるような気持ちになるようなことはあるのか、人の動きを見て学ぶとき、その見方の工夫のようなものはあるのか……そんなことを考えてしまいます。

撮影: 岡村啓嗣

■どのようにすれば「先人との交感」が叶うのか

二つ目は、熊川さんはどのようにして「先人との交感」ができるようになったのか。いつからできるようになったのか。その辺りのことです。

この問いについて、本書のなかから自力で、さしあたっての答えを探すなら、ひとつは2004年から2005年頃、「全幕バレエの改訂版をつくり始めてから、次第に古典の奥深い世界に目を見開かされ、自分の中で自然にクラシック・バレエに対する畏敬の念が深まっていった。」(134頁)ことがきっかけになったと想像しています。

「自己アピール全開の時代に意識していたのは、自分の存在意義や観客の存在であり、そこには歴史の重みに対する感覚も、先人への敬意も、後輩への責任感もないに等しかった。」(134頁)とも語っておられますが、「私=個人」を打ち破ったときに「先人の声」が聴こえだすのではないか、この文章からはそのようなことを考えさせられました。

今回、併せて熊川さんの『メイド・イン・ロンドン』(文藝春秋)も拝読しましたが、あの頃はまだ「個人としての成長」の時期で、「先人との交感」や、バレエという膨大な蓄積のある世界を受け継ぎ受け渡すこと、すなわち「共同体の継承」にまで認識が至っていない印象です。そんな「私=個人」が中心となっている時期、知りたいことのひとつ目で引用した「ロイヤル時代の先輩たちが踊っている映像を、以前は自分の能力と競うような気持ちで見ていた」ような時期には、「先人との交感」は生じなかったということは、非常に興味深いところです。

すなわち、なにが「先人との交感」を邪魔するのかということですが、もし、「私=個人」を乗り越えていくことが「先人の声」を聴くことにつながっているとするならば、どうやって「私」を乗り越えたのか。この辺りのことを熊川さんにもっと聞いてみたいです。

というのも、能や武道をはじめとした「わざの伝承」においては、「私」を打ち破ることが大問題であるからです。「わざ」を行使するうえでも、「わざ」を学ぶ段階においても重要なことで、「無心」や「無我」の問題としてあちこちで言及されています。「私を乗り越えること」がそのまま「無心」の話に重なるわけではないと思います。ですが、「自己アピール全開の個」から「共同体のために在る」という認識の次元の変化は、無心の問題を考えるときにすごく興味深いところだと思っています。熊川さんにおいて、こういった認識の次元の変化はなぜどのようにして生じたのか。

この問いについて、さらに自分なりに考えることを続けてみると、考える手がかりになったのは、Kバレエの公演パンフレットです。そこに「“音楽の波”に乗れるまで、自分の中で消化されるまで徹底的に聴きこむ。そうすると音が読み解けてくるんですよ。」(『カルミナ・プラーナ』公演パンフレット2019)という話がありました。そして本書にも「音楽スタッフと音符一つひとつを分析しながら、膨大な時間をかけて天文学的な数にのぼるカウントの振付をした。」(122-123頁)ということが書かれていました。このあたり、「先人との交感」をするための、非常に興味深い「方法」だと感じています。

つまり、「音楽=楽譜=先人=先人の痕跡」に徹底的に向き合う。こちらから何かを持ち込むことはせず、ひたすら聴く。耳を傾ける。添う。そして、サーフィンのように「向こう側にある流れ」に乗っていく。そういう在り方の問題です。

重要なのは、この「対象を理解しようとする臨み方・姿勢・態度」で、熊川さんにとっては、音楽を聴きこむときにこの態度が貫かれていて、それが結果的に「私」を薄めていくトレーニングとなっているのではないか、そんなことを思ったりもしました。「これは雷の音、これは馬車が走る音、と楽譜が示すものを解釈している」(123頁)というあたりは、杉田玄白が『ターヘルアナトミア』を『解体新書』として翻訳していたときの様子に通じるものがあって、古典の理解はまるで翻訳のようだなどと思ったりもしました。音を動きに翻訳するようなことで、翻訳は基本的に「私」を入れることはしないですもんね。

とはいえ、どうしても「私」が頭をもたげてくるので、徹底的に添うことは、じっさいのところ極めて難しい「わざ」だと思います。合気道の稽古で僕自身も何度も経験していますが、あきらかに圧倒的な存在である多田師範に対しても、恥ずかしいことに、意見や指摘をしたいような気持ちがでてくるのです。「私」は学びを邪魔する、ということを頭で知っているけれども、全身で添う状態にはなかなか持っていけない。僕が未熟なだけかもしれませんが、指導のお手伝いをしているときにも相手のなかにそんな「反発」を感じるので、添うことはみんなにとっても容易なことではないはずだと考えています。

でもしかし、徹底的に添うことを熊川さんは成し得ている。なぜなのだろうとさらに考えてみるとして、ひとつ、理解しようとする対象へのリスペクトや信頼に思い至ります。それは「有名な作曲家だからすごい」というようなリスペクトではなく、創作された音楽の美しさやすごさという、理屈を超えた感覚や感動を土台にしたリスペクトで、それが徹底的に添うことを支えているのではないか。

「自分の振付や演出で、先人たちの音楽を損ねたり品格を下げたりしてはいけない。音楽へのリスペクトが高まるにつれて、その思いは強くなっている。」(78頁)ともありますが、ひとつの技術として聴きこむのではなかなか「先人との交感」にまで至らない。対象への深い敬意や熱意を土台にして聴きこむこと、あるいは、深い敬意が生まれてくるまで聴きこむこと、それが重要なのかな、などと考えています。そうであれば、僕はまだ、師匠の技を観たりない。もっともっと何度も繰り返して観続ければ、今以上に、その凄さを感じることができて徹底的に添うことが出来るのかもしれません。

ちなみに、『メイド・イン・ロンドン』のなかで、1988年、ロンドン二年目の段階について、熊川さんはこのように書いておられます。「その頃から僕は、この学校で学ぶものは何もないと勘違いし始めていた。自分の踊りはもうプロとして舞台の上で観客に見せてもいいレベルに達している、と過剰な自信が芽生えていた。今から思えば、僕は本当に若かった。今は、学ぶということは永遠に続くものだと理解できるが、当時の僕はステップなどの形を習得することが学ぶことだと思っていた。それはもう身についたのだから、この学校にいる必要はない―そう考えたのだ。」(『メイド・イン・ロンドン』 67頁)

それに対して、いまの熊川さんは「次第にバレエに人生をかけた先人や先輩たちすべてに尊敬の念を抱くようになった。……若いころは気づかなかったが、僕はやはりすばらしいバレエ団にいたのだということにあらためて思い至る」(同上 138-139頁)と認識が変化しています。すべてのものに敬意を抱けるようになる、その在り方、境地。「森羅万象のすべてが師になる」ということを念頭に置きながら、ここも興味深く読みました。

ところで、徹底して添うということを書くと、ともすれば「先人」と「私」に上下関係があるかのような気もしてくるのですが、熊川さんは「過去の芸術家が現代に生きているのならば、われわれも同等の芸術家として肩を並べなければ、優れた作品世界をともにつくり上げることはできない。」(60頁)とも語っておられます。

これが考えさせられるところで、偉大な芸術家に強い敬意を抱くと同時に、呑まれてしまわず、「同等に」、「肩を並べて」、立つ。その在り方で徹底的に添うことで聴こえてくる声がある……熊川さんはそういっているような気がします。そして、同等であるための胆力というか自信というか、存在の仕方というか、そういうものが「先人との交感」を支えるのではないかと考えさせられました。

『完璧という領域』と同じ時期に武道家の光岡英稔さんの『身体の聲』(PHP研究所)を読んでいたのですが、そこにあったサーフィンの話が、この「同等」ということと重なるように感じました。引用してみます。

「サーフィンで言えば、「いい波が来てほしい」と期待したとしても、来るかどうかは波が決めるので仕方がなく、人間側は自然が与えてくれる波に対し受け身であることしかあり得ません。同時に向こう任せな受け身な気持ちだけでは波に呑まれるだけです。ちゃんと来る波の状況を受け入れる中で「自分の形」がなければうまく波には乗れません。自分の形がないと波との関係性を築けないわけです。」(80頁)

バレエダンサーにおいては、偉大な音楽家に呑まれないための「自分の形」をもつために、必要な自信や胆力を得るためにどうするのでしょうか。そのためのレッスンがあるのか、経験を重ねるのみなのか、なんらかのメンタルトレーニングのようなものがあるのか、昔の剣術家は禅の修業などをしたけれど……などと問いは続いていきます。存在の仕方に関わってくるならば、これは本当に深いテーマです。

ちなみに光岡さんは、先の引用に続けて、波に呑みこまれないために必要な「自分の形」をもたらすのは身体であると語っておられます。「自分の形をもたらすのは身体です。そこにアプローチし、目を向けていかなければ、人は自然との関係を築けず、生きてはいけません。自分の身体に目を向けるとは、自分を詳細に理解していくことでもあります。」(同上 80頁)。

こういう言葉を読んでいると、僕は師匠の技を観たりないだけではなくて、自分自身のこともまだ観たりないのだろうなと思わされます。ただ一生懸命に動くだけではもはや上達しないという段階に入っていて、これ以上は、もっともっと繊細に自分の身体感覚や心の状態を観察しなければ前進できないのだろうという感じでいます。

熊川さんも、もともと優れた感覚をもっていて、その上でさらに次第に身体の状態や動きを理詰めで分析したり解読したりすることができるようになったと書いておられました。そして、「ある程度言葉にできているのは、Kバレエで他人を指導するようになってからだ。そしてけがによる手術を経て、身体の調整を分析したことで、より精緻に説明できるようになった。」(94頁)とも書かれていました。こうした変化も興味深いところです。

ところで、公演パンフレットからの引用のなかでこれは重要だなと思ったのが、「音楽の波」があることを熊川さんはすでに知っているということです。そこに波があって、聴き込めば必ず波に乗れるということを知っている。信じることができている。だから徹底的に聴きこむことができる。音楽の波を損ねないように気をつけながら、そこにある流れに乗せられる瞬間を待つことができる。変に自分を持ち込むと波に乗れない……熊川さんは経験的にそういったことを知っている。これはそんなことを考えさせられる一文でした。

そうなってくると、気になるのは、「音楽の波」の存在やこの方法を「いつ知ったのか」、「なぜ知ったのか」ということです。誰かに教わったのか、自分で気付いたのか、そのあたりはどうなのでしょうか。

  • 電子あり
『完璧という領域』書影
著:熊川 哲也

熊川哲也、21年ぶりの自伝。Kバレエカンパニー旗揚げ、古典全幕作品上演、バレエスクール主宰、日本発オリジナル作品創造、オーチャードホール芸術監督、そしてさらなる新たな創造。前人未踏の軌跡が今、本人の手で明かされる――。

「完璧など存在しない」と人は言う。だがそれは失敗から目をそらしたり夢をあきらめたりするための言い訳にすぎない。たしかに作品を「完璧という領域」にまで到達させるには、ダンサーの心技体だけではなく、オーケストラやスタッフ、観客、劇場を含むすべてが最高の次元で調和しなければならない。それは奇跡のようなことかもしれない。しかし「完璧という領域」はたしかに存在する。偉大な芸術はすべてそこで脈打っている。僕はつねにその領域を志向してバレエに関わってきた。――「はじめに」より抜粋

レビュアー

川口陽徳

1979 年奈良県生まれ。東京大学大学院教育学研究科博士課程満期退学。千葉経済大学非常勤講師などを経て現在在野で研究活動を行っている。修士(教育学)。専門は、教育哲学、教育人間学。主要業績に(共著)『わざ言語――感覚の共有を通しての「学び」へ』(慶應義塾大学出版会、2011年)、(共著)『日本の「わざ」をデジタルで伝える』(大修館書店、2007年)、「漢方医道の継承――浅田宗伯の知識観と師弟関係」(『東京大学大学院教育学研究科紀要』第45巻、2006年)、「『言葉にできない知』を伝えること――『わざ』の世界から学ぶ」(『幼児の教育』第108巻、日本幼稚園協会、2009年)、「『文字知』の陥穽――宮大工の継承における書物」(「人間形成における『超越性』の問題」、京都大学GCOE <心が活きる教育のための国際的拠点> 研究開発コロキアム論文集、2010年)などがある。

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