私は今、自民党を憂いています。現在の自民党政治の暴走に対して、たった一人でも政治家の使命をかけて闘わなければならない。そう決意をせざるをえないのです。
本書が出版されてから1年半、著者が懸念した自民党の劣化、さらに政治の劣化は止まることがありません。その流れの中で著者の孤立は深まっているように思えます。氏の「正論」と思えることがなぜ通じないのか……そのようなことを考えさせる良書です。
政治家の劣化をもたらした最大の要因を著者は小選挙区比例代表並立制という選挙制度にあるとしています。この制度はなにをもたらしたのか……。
政権支持率が高ければ、個人の候補者の能力が伴わなくても、小選挙区で勝てることになってしまった。これによって、与党の政治家は、ポピュリズムに走り、有権者に迎合する政策が多くなった。
もはや周知のこととですが、党の公認を得られるかどうかで選挙の行方が大きく左右されるようになりました。そのため党執行部に反対することができにくくなったのです。
選挙とポストのすべてが官邸や党幹部次第ということになるのですから、時の権力者の言いなりになってしまう危険性をはらんだ選挙制度だと私は思います。
党の執行部が政治家を指名し選んでいることになります。自民党総裁=首相ですから、これは官邸(首相、官房長官)の意向と重なり合います。
政治家は有権者を見ているのではなく、公認許諾権を行使する権力者のほうを見て、その意向を窺い、忖度するようになっています。さらに政治家(権力者)は自らの統治・行政を正当化する道具として“議席数という民意”を持ち出し利用するようになりました。議席数と民意とは必ずしもイコールではありません。
この小選挙区比例代表並立制を最大限利用し、さらに“民意”というツールを利用し権力基盤を強化した始まりは小泉政権下での郵政民営化選挙でした。
小泉政権の郵政選挙で「郵政民営化」に反対した自民党の政治家はすべて公認を取り消され、その上に刺客まで送り込まれました。郵政民営化反対を言ったら政治家が政治生命を奪われたのです。「俺の言うことを聞けないのなら自民党議員を辞めろ!」と。
政治家の政治生命を党が握る事態を招き寄せたのです……。
解散権は本来大義名分がなければならないのに、総理の判断によって解散のハードルが下がったのはこの選挙からです。
選挙に大義名分はいらないという言動は政治家だでけでなくメディアに登場する評論家までが平然と口にしています。内閣が当然のように行っている憲法7条解散は、内閣の助言と承認により天皇の国事行為として行われる衆議院の解散ですから、とりもなおさずなんの大義名分もない行動を国事行為として天皇に行わせていることになります。
この郵政選挙は今に続く“劇場型選挙”の始まりにもなりました。演説や答弁などで政治家がキャッチフレーズのような一言を多用するワンフレーズポリティックスもここから始まりました。これは明快というよりも単純化によって、聞く方に思考停止をもたらしたのです。
単純化でいえば敵・味方という二分法、選挙の流行語になった“刺客”という言葉もそうです。抵抗勢力というレッテル貼りと刺客、これほど権力者の立場から色分けしたものはありません。
自民党政治家に劣化をもたらした党執行部追従態勢、それは権力者へのイエスマンを増やし続けています。魔の二回生議員云々も執行部依存で当選した弊害のあらわれです。
この背景には“派閥弱体化”というものがあります。金権腐敗や権利集団として、かつては自民党の悪のシンボル視されていた派閥。その負の側面を強調し攻撃材料としたのも郵政選挙でした。小泉氏の「自民党をぶっ壊す」というのは、実際は「経世会支配をぶっ壊す」というものでした。経世会の功罪を冷静に考えることなくして敵視したのです。
経世会は派閥の典型でした。この会を考えることは派閥の功罪を考えることになったのに、それは果たされませんでした。ところがこの経世会の源流というべき田中角栄の再評価が今されているというのは歴史の皮肉でしょうか。
私は議員が劣化したもうひとつの背景に、派閥が弱体化し、新人議員の教育機関の役目を担えなくなったことがあると思っています。(略)自民党が大きく議席を失うことになったのは、郵政選挙で議員バッジをつけた小泉チルドレンの83人中70人が落選したからであります。2回目の当選をするための「組織力」「政策力」等の「議員力」を、派閥ではなく党が行う研修会という議員教育では、身に付けることができなかったということでしょう。
党の研修機関というものだけではとても政治家教育はできない……この批判は昨今の“政治塾ブーム”にも当たっていると思います。政治家の資質・能力そして資格を作るのは研修会や政治塾ではありません。
今の日本では行政権力の肥大化が目立ちます。解釈改憲、閣議決定重視は国会軽視に繋がります。国会の重要な役割である行政権力のチェック・監視が十分果たされているとはいえません。それがもたらす未来をこう記しています。
今の自民党の政策が進んだ先には、日本という国には滝つぼが待っているとしか思えないのです。その結果、何が起こるか? 第2次世界大戦前、ドイツは世界一民主的だったはずのワイマール憲法下で全権委任法という法律を通すことにより、ナチスが台頭してしまったという歴史的汚点がありました。それと同じようなことが日本で起こる危険すら感じています。
著者は自戒の念を込めて丸山眞男の「無責任の体系」について書かれた文章を持ち歩いているそうです。
「無責任の体系」論は、日本が太平洋戦争に突入した際の政策決定を分析した理論ですが、一連の清話会政権の欠点、安倍政権の「憲法解釈による集団的自衛権の行使容認」の問題点がそのまま当てはまるのです。
1.現実を直視せず、希望的観測で現実を認識したような自己欺瞞に陥る。
2.既成事実への屈服。事ここに至っては後戻りできないとあきらめ、誤った政策をズルズルと続ける。
3.権限の逃避。誤った政策が事態を悪化させることを認識しても、自分にはそれを是正する力はないと、自らの立場・役割を限定した上でそれに閉じこもり、政策決定の議論から逃避する。
これは「深い議論の末に現実を踏まえたわけでもないのに気軽に『私が全責任を取ります』」という安倍首相への批判だけにとどまりません。政治家を見る私たちへの警鐘です。
レビュアー
編集者とデザイナーによる書籍レビュー・ユニット。日々喫茶店で珈琲啜りながら、読んだ本の話をしています。政治経済・社会科学から芸能・サブカルチャー、そして勿論小説・マンガまで『何でも見てやろう』(小田実)ならぬ「何でも読んでやろう」の二人です。