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日本人は、考えることをやめた。「去勢的しつけ」教育が原因か?

2017.08.09
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“教育問題”には大きく2つの課題があります。1つは制度に関するものです。教育を受けられる・受けられないということが、その後の社会的不平等をもたらせています。“格差”がもたらす教育機会の不平等という“教育問題”です。もう1つは教育内容に対するものです。どのような教育を行うべきか、というものです。

ではこの本で泉谷さんが問いかけたのはどのようなことなのでしょうか。それはこの両者を越えて“教育そのもの”に向けられたものです。

──現代において、この人間存在の基盤を成す「考える」ことそのものが、大変な危機に瀕している。現代のわれわれを取り巻いているさまざまな問題の根底には、「思考停止」というおぞましい状態が押し並(な)べて認められるのである。──

情報を集めても「既存の価値観」に当てはめているだけでは「考える」ことにはなりません。「知識」があっても「思考」がなされていません。ましてや「記憶力」というものはさほど信頼がおけるものではありません。

この記憶力のように年齢とともに低下するものを「流動性能力」と呼ぶそうです。それに対して「結晶性能力」と呼ばれるものがあります。こちらは、「経験を積み重ねることによってどんどん磨きがかかっていく」もののことです。

対比してみれば分かるように、今の日本の「入試や資格試験」などで試されているのは、「流動性能力」です。

──「流動性能力」を測定する試験ばかりを重要視していることは、社会そのものを内部崩壊に導く原因となりかねない深刻な問題である。つまり、いわば原始的な知性ばかりが重視され、社会の重要なポジションには真の思考力を持つ人間が滅多に見当たらないといった、とても奇妙な社会が作り出されてしまうからである。──

記憶力重視教育への反省がなかったわけではありません。個性重視ということがいわれたこともありました。しかしこれが「思考力」を育てることには繋がりませんでした。それをさまたげたのは日本特有の「ムラ社会」というものでした。

──わが国の学校という場において、「社会性を身につけさせる」「集団行動のスキルを身につけさせる」という名目で行われるのは、「ムラ的共同体」でいかに良きムラ人になって適応するかということである。それはすなわち、いかに個性を抑圧して「個人」としてムラから突出しない「従順」な人間になるかを叩き込まれることである。──

「個性」は「ムラ的共同体」が許す範囲内で許容されるものでしかありません。この先に道徳教育というものがあります。

──「道徳」教育というものが生み出すのは、「服従」的精神を持った「心」の弱体化した人間か、「道徳」の刷り込みに対して健全な「心」が「反抗」する荒れた状態のいずれかなのだ。──

では「考える」ということはどういうことを意味しているのでしょうか。

泉谷さんは大きく2つのことをあげています。

1つは「懐疑的精神」です。

──ある既存の考えを示された時に、まずは「本当にそうだろうか?」と疑うことから始める、ということである。これは、そもそも人間の自我の本性にかなった性質である。──

ちなみに泉谷さんは「自我」をこう定義しています。「『頭』が『心=身体』と一体になって融和的に働いていて、未だ歪みを被っていない状態の精神のことである」と。「頭(=理性)」に振りまわされることなく「心」を手放さないこと、これが、人間活動全体に重要な「結晶性能力」に繋がっていきます。

2つめは「即興性」です。

──即興性とは、人間の「心=身体」側に備えられている野性的英知である。しかしやっかいなことに、進化上では後から登場した「頭」という理性システムによって「心=身体」自体が劣ったものと見なされ、その特質である即興性までもが軽視されてしまった。──

もともと人間を囲む大自然は「予測不可能」なものです。その中で「生きる動物」には「即興性」が必要でした。しかし人間の「頭(=理性)」は「即興性」を認めようとしません。それはダイナミック(動的)なものをとらえそこなうことにも繋がります。「頭」はダイナミック(動的)なもの捉える場合、「微分して」スタティック(静的)なものとして取り扱っているのです。

泉谷さんはそこから「茶道や武道、芸能」などでいう「守破離」をこう重要視してこう記しています。

──「守」にあっては畏敬の念をもって師を見習う必要があるのだが、「破」においてはそれを打ち捨てて、懐疑的精神や反骨精神によって師の引力圏を脱しなければならないのだ。そしてさらなる「離」においては、「破」において重要な役割を果たした反骨精神をも捨て去り、もはや師を反面教師として意識することもなくなる。そして「自分」とか「独自性」といったものへの執着も脱して、「自由」になっていなければならない。──

「考える」ということは「人間らしく生きる」ということなのです。道徳の刷り込みや知識のすし詰め教育などというものは「自由」から最も遠い道であり、人間から逸脱し「猿へと向かう道」でしかありません。それは「意味を見失った」人間を作ることにしかなりません。それは「人間の空疎化」にほかなりません。「服従」を拒否し、「自由」に向かうためにこそ「考える」ということがあります。泉谷さんの強い精神が貫かれた1冊です。力作です。

  • 電子あり
『反教育論 猿の思考から超猿の思考へ』書影
著:泉谷 閑示

「好き嫌いはいけない」「大人の言うことはきちんと聞きなさい」「基礎が大切」「わがままはダメ」「嘘はつかない」「秘密は持たない」……。しつけや教育の現場でよく聞かれるこの言葉。でもそれって本当の事だろうか?
精神療法を行う著者のクリニックには、今日も多くの「生きる目的」「何をしたらいいかわからない」「したいことがない」と悩み多くのクライアントが訪れる。
エネルギーが感じられなくて、精神的に「去勢」されたような感じ。治療の過程で、彼らがそうなった根源を探っていくと、必ず彼らが受けた「教育」「しつけ」の問題にいきつく。
「自律した人に育ってほしい」と言う一方で、それと反対に「従順なよい子」の振る舞いを期待する大人たち。それに応えようとする子供たち。そうして育った子供たちが、結局効率的とか合理的な考え方しかできない思考停止人間になっていく。
これっておかしくないか? 注目の精神科医が現代のしつけ、教育の常識に強烈にダメ出しする。人間らしい真の思考を目指すためのヒント。

レビュアー

野中幸宏

編集者とデザイナーによる書籍レビュー・ユニット。日々喫茶店で珈琲啜りながら、読んだ本の話をしています。政治経済・社会科学から芸能・サブカルチャー、そして勿論小説・マンガまで『何でも見てやろう』(小田実)ならぬ「何でも読んでやろう」の二人です。

note
https://note.mu/nonakayukihiro

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