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安心できる裁判官は5%!? 「判決書くのは面倒なので和解」とか残念すぎる

絶望の裁判所
(著:瀬木 比呂志)
2017.07.26
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安心できる裁判官は5パーセント!!

瀬木さんによると最高裁判事には4つの性格類型があるそうです。
A類型:人間としての味わい、ふくらみや翳(かげ)りをも含めた個性豊かな人物⇒5パーセント。
B類型:イヴァン・イリイチタイプ。成功しており、頭がよく、しかしながら価値観や人生観は本当は借り物という人々⇒45パーセント。
C類型:俗物、純粋出世主義者⇒40パーセント。
D類型:分類不能型あるいは「怪物」⇒10パーセント。

これを見ると、私たちが安心できるのはわずかに5パーセントの判事、ということになります。そしてさらに手厳しい人物像が語られています。

──第一に、裁判官には知的能力なら相当に高い人間は一定程度の割合で存在し、最高裁判事になった人々の能力が決定的に高いとは必ずしもいえないこと、第二に、キャリアシステムの中で最高裁判事になる人々は、ごくわずかな例外を除き、多かれ少なかれ、他人を踏み付け、なりふり構わず上をめざすことでのし上がってきた人々であり、裁判官本来のあるべき姿からは遠い行いをしてきた例が多いこと、第三に、彼らも最高裁判事になってからはそれなりに「よい判決」を書き、あるいは「体裁のいい意見」を書くかもしれないが(ことにB類型、D類型の人々)、彼らよりもその地位にふさわしい人々がいる場合が多く、また、その人たちが最高裁判事になっていたらもっとよい判決がくだされたであろう可能性が高いことである。──

このような人々が憲法・法の番人として認められている、そう思うとため息しか出てきません。彼らが選挙の1票の格差について判断をしています。
──本当は乗り気ではないのだが、国民、市民の批判を受け、国会議員たちの顔色をおそるおそるうかがいながらやっと重い腰を上げているという傾向は明らかというほかない。そもそも、衆議院一対二、参議院一対五などといった、最高裁がガイドラインとしてきた比率にだまされてはいけない。民主制の根幹を成す選挙権の平等は、国会に裁量権が認められるような事柄ではなく、(略)私の意見をいえば、本来、違憲のラインは、一対一.一とか一.二といったところに引かれるべきものなのである。──

この票の格差がもたらす危険性は小選挙区制になって、ますます増しています。ただでさえ死に票が多くなる小選挙区制ではかつての中選挙区制以上に1票の重みが増しています。選出された議員(政党)の適否にかかわり、また地域の声に軽重をつけることになってくる1票の格差は正されなければなりません。その強い意志を今の最高裁は持っているのでしょうか。

──時代や社会の流れが悪い方向へむかっていったときにその歯止めになって国民、市民の自由と権利を守ってくれるといった司法の基本的な役割の一つについて、日本の裁判所、裁判官にはほとんど期待できない(略)追随、事大主義を旨とする裁判官が、時代の雰囲気、「空気」に追随し、判例の大勢に従って流されていってしまうことは、明らかだからである。──

民主主義の庇護者たるべき司法の姿はどこにあるのでしょう。

判決を書きたくない裁判官たち!?

裁判官も事大主義的な姿勢は、民事の世界で「和解の強要、押し付け」という形であらわれてきています。

裁判官が和解にこだわるのには2つの大きな理由があります。1つは「早く事件を“処理”したい」ということ、もう1つは「判決を書きたくない」というものだそうです。この判決を書きたくないというのには、困難な判断を行いたくないとか、さらには「単に、判決を書くのが面倒である」ということまでがあるそうです。

法の解釈、運用の最大のあらわれであるはずの「判決」を避けるということほど日本の裁判機構の危うさを象徴しているものはありません。

さらに日本の刑事司法には民事司法よりさらに大きな問題があります。

──日本の刑事司法の一番の問題点は、それが徹底して社会防衛に重点を置いており、また、徹底して検察官主導であって、被疑者、被告人の人権には無関心であり、したがって、冤罪を生み出しやすい構造となっていることにある。──

このような中で本当に正しく、よい判断が下せるのでしょうか。検察(=行政)をチェックすることなどできるのでしょうか。三権分立はどこにあるのでしょう。まさしく瀬木さんのいうように「絶望的」になってしまいます。

このような裁判官を生んだ大きな原因には最高裁判所事務総局を中心とした体制というものがあるというのが瀬木さんの分析です。この体制は「法律専門家エリートの閉ざされた官僚集団」が支えており、その中で作られたキャリアシステムにも大きな原因があります。この「檻」のように閉ざされている世界を瀬木さんは「精神的な収容所群島」と呼んでいます。

閉鎖された世界は、また、裁判官の内面に歪みをもたらしていると指摘されています。「内面性の欠如」「自己中心性」「共感と想像力の欠如」「慢心、虚栄、嫉妬」さらに「知的怠慢」……それ以上のことが取り上げられています。すべての裁判官がそうだというわけではないでしょうが、このような人が多いといわれる裁判所に司法判断を委ねなければならないというのが今の私たちの状況です。誤審、検察依存の冤罪等の危険が思い浮かびます。

このような裁判所が持っている問題に裁判員制度など市民の司法参加を目的の1つとした司法制度改革は有効なのでしょうか。市民の参加で裁判所は変わったのでしょうか。

──司法制度改革は、日本の裁判所・裁判官制度の問題の根源、諸悪の根源となっている最高裁判所事務総局の多様でかつ外からはみえにくい裁判官支配・統制、そして、上命下服・上意下達の徹底という問題を素通りし、事務総局中心体制を無傷のまま温存してしまうという根本的な過ちを犯したし、裁判員制度の導入決定後はむしろそのような体制が強化され、現在では、一枚岩の最高裁支配、事務総局支配、上命下服、上意下達のシステムが、以前にも増して固められてしまっている、ということである。──

司法への市民の参加は見かけだけのものでしかなく、瀬木さんの指摘した裁判所の問題は少しも解決されておりません。今の裁判員制度では「司法を市民のものにする」ということにはまだまだこれからの課題なのです。

瀬木さんは裁判官の制度に対してある提言を記しています。弁護士経験者から裁判官・検察官を任用するという法曹一元制を中心とする提言です。十分に耳を傾ける価値があるように思います。この制度ならば事務総局支配を正し、裁判官が持つべき広い視野を涵養することができるからです。

司法が市民を守るために生きるのにはなにが必要で、なにが問題となっているのか……日本の司法に根源的な批判をくわえた重厚な1冊です。

  • 電子あり
『絶望の裁判所』書影
著:瀬木 比呂志

裁判所、裁判官という言葉から、あなたは、どんなイメージを思い浮かべられるのだろうか? ごく普通の一般市民であれば、おそらく、少し冷たいけれども公正、中立、廉直、優秀な裁判官、杓子定規で融通はきかないとしても、誠実で、筋は通すし、出世などにはこだわらない人々を考え、また、そのような裁判官によって行われる裁判についても、同様に、やや市民感覚とずれるところはあるにしても、おおむね正しく、信頼できるものであると考えているのではないだろうか?
しかし、残念ながら、おそらく、日本の裁判所と裁判官の実態は、そのようなものではない。前記のような国民、市民の期待に大筋こたえられる裁判官は、今日ではむしろ少数派、マイノリティーとなっており、また、その割合も、少しずつ減少しつつあるからだ。そして、そのような少数派、良識派の裁判官が裁判所組織の上層部に昇ってイニシアティヴを発揮する可能性も、ほとんど全くない。近年、最高裁幹部による、裁判官の思想統制「支配、統制」が徹底し、リベラルな良識派まで排除されつつある。
33年間裁判官を務め、学者としても著名な著者が、知られざる裁判所腐敗の実態を告発する。情実人事に権力闘争、思想統制、セクハラ……、もはや裁判所に正義を求めても、得られるものは「絶望」だけだ。

レビュアー

野中幸宏

編集者とデザイナーによる書籍レビュー・ユニット。日々喫茶店で珈琲啜りながら、読んだ本の話をしています。政治経済・社会科学から芸能・サブカルチャー、そして勿論小説・マンガまで『何でも見てやろう』(小田実)ならぬ「何でも読んでやろう」の二人です。

note
https://note.mu/nonakayukihiro

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