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延命するな。自分の「死」を他人の手に渡したいか? 老人ホーム医師、最後の声

2017.05.30
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『大往生したけりゃ医療とかかわるな』を世に問うた中村さんの総決算・最後のメッセージがこの本です。「治る」ことをあきらめる、とはいってもなにも単純な医療批判ではありません。この本のテーマは今一度冷静に、落ちついて穏やかに“自分の死”を考えてみようということです。なぜあえて“自分”と冠するかといえば、死は(生理的には)個人的な問題でありながらも、個体・個人を越えて存在してしまうものだからです。

──あの世とやらから戻ってきて、“帰朝”報告をしてくれた人は、ひとりもいないのです。臨死体験とやらも、あくまで此岸の問題であって、彼岸のことではありません。(略)死後の世界は、どう足掻いてみても、人間にはわかりようがないのです。──
でももちろん私たちは“死”を知っています。それは関係の喪失・欠落として知っているのです。

死を遅らせようという「延命」とはなにかを考えなおしてみます。
──「延命」を、中村流に定義してみます。「周囲の人間(家族、介護職員、医療者など)が自己満足のため、本人の苦痛と引き換えに、命を無理に引き延ばすこと(死ぬのを先送りすること)」と考えています。従って、「延命医療」とは、治すことのできない「死」に対して、治すための医療を行って、本人の苦痛や負担との引き換えに、死ぬことを先送りする医療ということになります。──

死は残された者の問題となっています。誤解をおそれずにいえば、中村さんの主張は、他者の手に渡ってしまう「死」を自分の手に取り返そうというのではないかと思います。自分の死と向き合って生きようということです。

これはどう生きるのかにつながっています。なぜならどう生きるかは、自分の死をどのように考えているか、自分の死を見つめるところからが始まるからです。メメント・モリという言葉があります。ラテン語で「死を想え」「自分が(いつか)必ず死ぬことを忘れるな」といった意味の警句です。これと響き合っています。

死を考えることが難しく(あるいは避けるように)なったのには、医療の“進歩”も関係しています。
──患者参加の医療とか、患者中心の医療ということがよくいわれます。しかし患者中心の医療にも二種類あるのです。一つは患者「が」中心であり、もう一つは、患者「を」中心です。(略)患者「を」中心は、患者さんを囲む医療者や家族など、周囲に主体性があって、患者さんのためによかれと考えられることを行うことになりますが、患者「が」中心の場合は、患者さん自身に主体性があり、その意向を尊重して、周囲が手助けをするということなのです。──

治癒に対しても中村さんは根本的な疑問を出しています、「治る」にはふたつの意味があるのだ、と。中村さんはカゼ、肺炎のような病気と、高血圧、糖尿病のような生活習慣病とには違いがあると考えてこのように記しています。
──一つは「病気と縁を切る」「病気を完全に駆逐する」ことであり、もう一つは「症状が消失する、軽くなる」ことです。──

後者の高血圧などの生活習慣病は投薬や生活改善で「治る」ことがあります。けれども……。
──カゼや肺炎と違うところは、「治った」と思っていたものが、塩分を摂りすぎたり、心労が重なったり、不摂生をしたりすると、また血圧が高くなり、いろいろな症状が出てくるところなのです。つまり、「病気と縁を切る」という意味では、治っていなかったのです。──

つまり「高血圧は『治る』といっても『治らない』と表現しても、どちらも間違いとはいえない」ということになります。ですからこの生活習慣病のような場合では「投げ出すことのできない荷物」と考えて、「荷物を軽くするように考えて」付き合っていくのがいいのです。もちろん無茶を奨めるというような健康軽視ではありません。
──わたしたち医師が二十四時間その行動を監視するわけにはいきませんので、患者さん自身が、自分の病気と主体的に取り組み、「生活を病気に合わせる」役割を演じなくてはならないのです。──

「絶対的な健康」を追うのではなく、「できる範囲で」「無理をしないで守れる範囲で」という姿勢で病気、特に生活習慣病のようなものとはつきあうべきなのです。
──基本的には病気を持ったまま、どこまで症状を軽くできるかに焦点をあて、完全に治ろう、治そうという考えを捨てて、病気と平和共存を図り、病気を抱えた“病人としての人生”を精一杯生ききることを考えるべきだと思うのです。──

治すのは医者でも薬でもありません。医者や薬は「患者さん自身が治そうとしている上で障害になっているものがあれば、それを取り除く手伝い」や「側面援助」をしているのであって、「自然治癒力」が病気を治しているのです。

これは現代の「健康至上主義」への批判です。この「自然治癒力」が衰えた末に「死」があると考えれば、これは「死を抱いて生きる」ということに繋がります。

ではこうしてやってくる「死」、「自然死」と呼ぶようなものはどのようなものでしょうか。中村さんはとても興味深い説明をしています。
──自然死の実態は、食べたり、飲んだりしなくなって亡くなりますから、いわゆる“餓死”です。しかし、普通の餓死とは違うのです。死んでいく人間は、身体が要求しません。従って、腹もへらず、のども渇かないのです。ですから、食べないから死ぬのではありません。「死に時」がきたから食べないのです。しかし、ここのところが、今の日本人には理解できず、食べないから死ぬと思ってしまいます。──

さらにあらわれる「脱水」「酸欠状態」についても……。
──「飢餓」も「脱水」も「酸欠状態」も「炭酸ガスの貯溜」もすべて穏やかに安らかに死ねるような自然のしくみが、わたし達の身体には備わっているのです。ですから、死ぬというのは、ぼんやりとした気持ちのいいまどろみの中での、この世からあの世への移行を意味し、辛いことも苦しいこともないのです。──

そしてこう続けます。
──強制的な人工栄養や点滴注射や酸素吸入は、それを邪魔していることになります。従って、死に際に「できるだけの手を尽くす」のは「できる限り苦しめる」ことに外なりません。心すべきでしょう。──
最期をむかえている人の苦しみはなにがもたらしているのか、じっくりと考える必要があるのかもしれません。

「“自分の死”を生きる」には主体性を持たねばならないという中村さんの言葉が重く響いていきます。

時には覚悟的なもの、宗教的なものを感じることもある中村さんの言葉ですが、終活を考える前に、あるいは「老」を考えることがある人にぜひ読んで欲しい良書です。死が生とともにあるということがよく分かります。

  • 電子あり
『「治る」ことをあきらめる 「死に方上手」のすすめ』書影
著:中村仁一

わたしは“がん”で死にたい、ピンピンコロリはお奨めできない、生活習慣病は「治らない」、漢方薬も基本的には異物、趣味がなくてもボケない、老人は存在そのものに意味がある、お迎えを待つなどもってのほか、こだわらない、とらわれない、医者は頼るな、任すな、利用せよ。ベストセラー『大往生したけりゃ医療とかかわるな』を書いた医師の最後のメッセージ!
深刻で切実な問題となっている「老い」と「死」について、老人ホームの医師という視点から鋭く切り込みます。
「わたしは死ぬならがんで死にたい」
「治らない病気を治る気にならない」
「薬、検査、治療に期待するな、医者もかかわるな」
「在宅死のためにしなければいけないこと覚悟」
「胃瘻(いろう)なんかやるものじゃない」
など、現代医療に疑問をもつ発言多数で、それが今の時代、腑に落ちる……潮目は変わってきたのです。「死に方」は「生き方」、死ぬまでに充実した人生を送るにはどうしたらよいか、この本がその答えを与えてくれます。

レビュアー

野中幸宏

編集者とデザイナーによる書籍レビュー・ユニット。日々喫茶店で珈琲啜りながら、読んだ本の話をしています。政治経済・社会科学から芸能・サブカルチャー、そして勿論小説・マンガまで『何でも見てやろう』(小田実)ならぬ「何でも読んでやろう」の二人です。 note https://note.mu/nonakayukihiro

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