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【名著】日本語が滅びる!? 日本語入力は本当に進化しているのか

日本語と事務革命
(著:梅棹忠夫)
2017.02.24
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自分メモ
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国破れて山河あり。祇園精舎の鐘の声。ゆく河の流れは絶えずして。

この世の真相が流転であり変化であることなんて、幾度も指摘されている。まさに古今東西、枚挙に暇はない。

にもかかわらず、この手の主張はやむことがない。理由は簡単、人は目の前の事象を、永続のもの・最終のものと考えたがるからだ。流転や変化が真相だと何度聞かされても、自分はそこから除外されていると思いたがる。まさに、人は見たいものだけを見る、だ。

今、私は日本語109キーボードを用い、Windows上で動くATOK日本語入力を使ってテキストを制作している。当然のことながらこれはテキスト制作方法としては過渡的なものであり、最終形態ではない。だとすれば、将来はどんな形が考えられるだろう? そもそも文章をつくるという行為自体がなくなっているのだろうか? 

未来を予測したいと考えるとき、大きな手がかりとなるのは、それがどのように成長してきたか、すなわち過去を知ることである。

本書は、機器における日本語入力がどのように発達してきたかを語った書物である。言いかえれば、日本人が事務処理とどのように向き合ってきたかを描いた歴史書だ。番頭さんの台帳からはじまったそれが、いかにして機械化を遂げ、処理されるようになったか。本書は詳細に述べている。それを語るのが日本人有数の碩学であることは、たいへんな幸福だ。もし梅棹忠夫が機械オンチだったら、こんな本は生まれ得ない。ひょっとすると、日本における事務機械化の歴史を述べるなら、梅棹以上に適任があるかもしれない。だが、そこから日本語という言語の特徴、さらにはそれがどうあるべきかまで語り得る人物は、そう多くはない。その意味で本書は希有の書だということができる。

結論から言うと、本書は漢字かなまじり文で記される日本語を、事務処理に不向きな言語であると断じている。母国語にアルファベットを使用する国がタイプライターを使用しているとき、日本語はいつまでも書くことから離れることができなかった。番頭さんの台帳から進化することができなかったのだ。これは事務処理能力の決定的な差となって表れた。

梅棹がすすめたのは、日本語をカナのみ、ないしはローマ字のみで記述する方法である。漢字は使わない。伝統主義者はこれを問題視するが、そもそも漢字なんて日本で生まれたもんじゃない。日本人の中国かぶれの証左でしかないのだ。梅棹はそう主張する。

実際、漢字かなまじり文で記そうとするから、文字数が膨大になるのである。カナのみとわりきってしまえば五十音に撥音濁音などを加えた限られた文字種で対応できるし、ローマ字ならば英文タイプライターがそのまま使える。事務処理能力は格段に向上するのだ。

私事になるが、自分も同じような経験がある。
Linuxというオペレーティング・システムがある。主にサーバ分野で活躍するものでみなさんの目にはふれないことが多い──というのがすこし前までの説明だったが、今は説明もラクになった。あなたの手の中にあるAndroid、それがLinuxだよ!で済むのである。現代は有史以来、もっともLinuxがハバをきかせている時代である。

Linuxにはいろんな特徴があるけれど、大きなもののひとつに、オープンソースだということがある。オープンソースってのは、批判を恐れずものすごくわりきっていうと、タダで入手できるってことさ。

私はわりと早い時期からLinuxユーザだった。Androidなんてカゲもカタチもなかったころに、PCにLinuxをインストールして使っていたのだ。そのときネックになったのが日本語の扱いである。英語圏で使用することを前提につくられたLinuxに、日本語はまったく合わなかった。

一方、私は日本語で本をつくる仕事に携わっていたから、どうしても性能がいい日本語入力システムが必要だった。有志がCannaもしくはWnnというLinuxで動く日本語入力システムを開発してくれていたが、これは残念ながら、私の仕事には役不足だった。そのころよく思ったものだ。「英語が母国語だったら、絶対Linuxを常用するのに!」

そのとき、現TENTO代表の竹林暁さんが、ATOKの辞書をCannaに変換するPerlスクリプトを書いてくれた。これを使って、私はどうにかこうにかLinuxを使用することができたのである。

自分で必要なものは自分で作ればよい。そのテクニックは誰もが持つべきだ。このときの竹林さんの行動が、のちに子供向けプログラミングスクールTENTOの設立につながったのだと思っている。プログラミング塾なんて今じゃめずらしくもないが、その嚆矢はTENTOだ。TENTOは早かった。だから当時は儲かんなかったんだけどさ。

Linuxを日常的に使っていたころ、私も竹林さんもヒマだった。貧乏だったけど、時間だけはたくさんあった。じつはそれってものすごく豊かなことなんだけど、そう気づいたのは失ってからだ。たぶんみんなそうなんだろう。

あのとき私が梅棹のように日本語批判に向かわなかったのは、不便に感じているLinuxを使わなくても、Windowsを使えばある程度満足のいく日本語環境が手に入ると信じていたからだ。要するに、今あるそれを最上のものと考える凡人の思考から脱していなかったのである。まったく情けないが、それを認めるしかない。

閑話休題。

漢字かなまじり文を使って記される日本語は、タイプライターなどの機器にそのままのせることはできない。事務処理能力に注目したとき、これは致命的な欠陥である。

それが誰の目にも明らかになったのは、戦後、アメリカによる占領統治がはじまったときだ。英文タイプライターがそのまま使えるアメリカ人は、日本人よりずっと少ない人数で同じ量の事務処理をこなした。差は歴然だったのだ。

だが、日本はその後、世界に冠たる経済大国に成長する。漢字かなまじり文を維持したまま、それは成し遂げられたのだ。事務処理能力は大した問題ではない。そんな批判もあるだろう。

梅棹はこう答えている。日本は欧米よりずっと多くの事務処理人員によって欠陥をおぎなった。要するに人海戦術で、それが可能だったのは人件費が安かったからである。おそらく、事実だろう。

今、私はローマ字入力をもってPCを扱っている。一般的な方式だ。
スマホやタブレットではカナ入力を使ったフリック入力もしくはテンキー入力が主流だと聞いた。
すなわち、機器の進化によって、梅棹が望む世界が到来したのだ。ローマ字で書くことも、カナで書くことも一般化した。日本人の事務処理能力について云々するのは時代遅れだ。日本語は漢字かなまじり文のまま進んでいけばいいのさ。そう主張する人もいるにちがいない。

だがちょっと待て。
ほんとにそうか?

梅棹は機器の進展を見ずに他界してしまった。だから真意はわからないが、彼が現代のありさまを見たなら、こう主張したのではないだろうか。
「それは問題の先送りだ」
ローマ字入力にせよカナ入力にせよ、かならず漢字変換という作業を経て文章がつくられる。つまり、漢字かなまじり文を維持するために、欧米より一工程増えているのだ。以前より差はずいぶん小さくなったが、事務処理能力の差はなくなってはいない。そして、漢字かなまじり文を維持し続けるかぎり、この差は埋まらない……ように思える。しかも、前みたいに人海戦術が使えるほど人口は多くないんだよ。

もし、国語がローマ字だったらどうだろう? カナだったらどうだろう? そんな夢想をしてみる。今、目前にあるそれとは別の進化がそこにはある。すくなくともこれだけは間違いない。私は断じて、Windows上で動くATOK日本語入力を使ってテキスト制作なんてしていないだろう。

日本語と事務処理はどう変化してきたか。日本語とはどのような言語なのか。それを知るために、本書は格好の名著である。

  • 電子あり
『日本語と事務革命』書影
著:梅棹忠夫

音読みと訓読みの混在、正書法の不在……。かつては「悪魔の言語」とまで呼ばれてきた日本語のこうした諸問題もいまや変換キーさえ押せばすべては解決するように思えます。また、漢字仮名交じり文という世界にも類を見ない表記法の効用を説く人も多い。
しかし、梅棹の説くとおり、すべては先送りにされただけです。ひょっとしたら20世紀末の技術の発展は、21世紀において日本語をよりローカルな言語へと押しこめてしまったかもしれないのです。日本の人口がますます減り、経済力も萎んでいったならば、そして日本語を学ぼうとする人びとの数が増えなかったらどうなってしまうのでしょうか。いまなお梅棹の警告が生きているゆえんです。
本書は数ある梅棹の「日本語と情報」に関する著作の中心に位置するものです。

レビュアー

草野真一 イメージ
草野真一

早稲田大学卒。書籍編集者として100冊以上の本を企画・編集(うち半分を執筆)。日本に本格的なIT教育を普及させるため、国内ではじめての小中学生向けプログラミング学習機関「TENTO」を設立。TENTO名義で『12歳からはじめるHTML5とCSS3』(ラトルズ)を、個人名義で講談社ブルーバックス『メールはなぜ届くのか』SNSって面白いの?』を出版。「IT知識は万人が持つべき基礎素養」が持論。2013年より身体障害者になった。

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