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手塚治虫が遺作『グリンゴ』で表現したかった「日本人って異常」

グリンゴ(1)
(著:手塚治虫)
2016.12.23
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電通の新入社員・高橋まつりさんの自殺は、大きな話題を呼んだ。彼女の残業時間は労使協定の上限70時間をはるかに上回っていたそうで、上司からは「君の残業時間の20時間は会社にとってムダだ」「目が充血したまま出勤するな」などと叱責されていたという。

ひでえ話だなあ、と思う。

これを契機に、大企業と呼ばれる企業の労働実態が明らかになりつつある。残業時間を大幅に少なく見積もって申告させられ、精神疾患にかかって退社した社員とか、ひどい話は次々と出てくる。一流企業もブラックだったってことだろう。

 
前後して、高橋さんが勤めていた企業・電通の社員手帳に記載されているという元社長の訓戒「鬼十則」の削除も決定されつつある。自殺者を生み出した遠因はここにあるとスケープゴートにされたのだ。

このときはじめて思った。さみしいなあって。鬼十則に思い入れがあるわけではもちろんない。だがこれは、ひとつの時代の終わりを象徴する事件なのだ。

かつて、日本のモーレツ・サラリーマンは、会社に自己実現を求めていた。仕事をすることが、豊かな人生を築くことにつながっている。多くの人がそう信じていた。この場合、報酬は金銭だけではない。精神的なものも大いに含まれており、だからこそ仕事にがむしゃらになることができた。会社にたいする忠誠心も並大抵のものではなかった。

しかし、この考え方はもう通用しないのだ。労働に与えられる対価は基本的に金銭以外にあり得ない。自己実現とか、精神的充足ではないのだ。

今後、労働時間に関する締め付けは、行政も世論もとても厳しいものになっていくだろう。自殺者まで出たんだから当然だ。企業は社員に「働くな」と言うだろう。この流れを止めることはできない。

ここには、企業の体力低下も大いに関係している。会社は社員に給与以上のものを供給することができなくなっているのだ。そういう会社で叫ばれる「鬼十則」が空虚なのは言うまでもない。これはとりもなおさず職業は給与の多寡のみでデジタルにはかれるってことである。要は職業に貴賤ありと証明されるってことさ。

この流れを批判するつもりは毛頭ない。そういうもんだとも思っている。
ただ、さみしいとは感じているのだ。なぜって、自分は古い側の人間、滅びゆく側の人間だから。仕事に金銭以上の価値を認め、仕事ばっかりやってた人間だから。儲かんないのに仕事してるなんて、バカみたいだろ? でも好きだったんだ。



『グリンゴ』は手塚治虫の遺作のひとつである。
主人公は南米の一流商社支社長・日本人(ひもと・ひとし)。これだけで、作家の表現したかったことは伝わるだろう。作家は、主人公を通して、日本人の異常さ・ヘンさを表現しようとしていた。この考えは、主人公の奥さんで白人の金髪美人、エレンの次のような述懐によっても知ることができる。

「日本ハ世界ノドコノ国ヨリモ変ワッテイマス」

エレンはこの言葉を、ジャングルの奥地に住む、虫を食べ、裸で暮らす民族と出会った後に語るのだ。つまり、彼女にとってはその民族よりも日本人のほうがずっと異常だったのである。

主人公は政争に敗れ、内戦のおこなわれる国に左遷される。一時はレアメタルの鉱脈を発見して一目おかれるようになるが、取引相手が革命軍だったため、すべてを失う憂き目にあう。信頼する上司にも裏切られ、家族をつれてジャングルを彷徨する。そういう経験を経ても、彼はまだビジネスのことを考えているのだ! エレンが日本人は異常だと言ったのはなによりもここである。

しかし、これこそが日本人の──すくなくとも当時の日本人の──属性なのである。手塚がそう考えていたことはまちがいない。
作者はこれを、断じて素晴らしいと絶賛してはいない。かといって悪いとも言っていない。それが日本人だ、自分もその一員だと語っているのである。愛憎相半ばする、といえば実状に近いだろうか。

ただし、この属性は失われつつある。それはこのテキストの前半で見たとおりだ。

もっとも、日本人の異常さ(ユニークさ)は仕事にたいする態度だけではない。もっと深いところにもある。
南米奥地で開催される相撲大会は、それが披露される場だった。背が小さくて相撲取りに向かない主人公が強豪を倒し10人抜きを達成するために、どんな手を使うのか。それは、絶対に日本人的な方法であったはずだ。『グリンゴ』という作品のテーマにそった、日本人(ひもと・ひとし)らしい方法だったはずなのだ。

残念なことに、手塚はそれを表現する前に逝ってしまった。主人公がどうやって勝つのか、謎のまま残された。
手塚の最後の言葉は「頼むから仕事をさせてくれ」だったという。『グリンゴ』の続きを描きたかったのだ。「これこそが日本人だ」と表現したかったのだ。

ただし、死の床で「仕事をさせてくれ」と語る、それは日本人の言葉ではない。日本人はそこまで凄絶じゃないのだ。これは、天才の凄絶さである。

  • 電子あり
『グリンゴ(1)』書影
著:手塚治虫

南米カニヴァリアに進出した大手商社の江戸商事。新支社長として赴任した日本人(ひもと・ひとし)は専務の懐刀であり、元力士志望という変わり種であった。そんな彼がカニヴァリアの地で目にしたのは……。苛烈な競争社会を描く第1弾! 

レビュアー

草野真一 イメージ
草野真一

早稲田大学卒。書籍編集者として100冊以上の本を企画・編集(うち半分を執筆)。日本に本格的なIT教育を普及させるため、国内ではじめての小中学生向けプログラミング学習機関「TENTO」を設立。TENTO名義で『12歳からはじめるHTML5とCSS3』(ラトルズ)を、個人名義で講談社ブルーバックス『メールはなぜ届くのか』SNSって面白いの?』を出版。「IT知識は万人が持つべき基礎素養」が持論。2013年より身体障害者になった。

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