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江戸から現代を見通してみると、落語がもっと面白くなる!

落語の国からのぞいてみれば
(著:堀井憲一郎)
2016.07.25
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「落語を聞くと、江戸時代がわかる」という意見がある。
「わかるはずないでしょ、やってる人がわかんないんだから」
柳家小三治がそう言っていた。正しいと思う。江戸時代のことなんてわかるかよ。

だが、本書はあえて「落語を聞いてわかること」を中心にすえている。当然のこと江戸時代の生活が論の中心になるのだが、本当に語りたいのはそこじゃない。江戸時代はあくまで触媒であって、実際には現代を──わたしたちが住んでいる時代を見ようとしているのだ。『落語の国からのぞいてみれば』とは、そういうことである(とてもいいタイトルだ!)。

興味ぶかい話題はたくさんあるが、例をひとつだけあげよう。
「名」の話だ。

落語の登場人物といえば、熊さん八っつぁんご隠居さん、バカで与太郎、人のいいのが甚兵衛さんと決まっている。この話で活躍しているそいつが、別の話でドジをふんでいたりする。

言われるまで意識していなかったが、これらの登場人物は同じ名前だが別の人物なのである。与太郎は『ろくろっ首』でご大家に婿入りする。『錦の袈裟』では奥さんがいる。明らかに別の人物だ。では、なぜ同じ名前なんだろう?

かつて、名前とは個人ではなく社会システム上の役割につけられるものだった。市川團十郎、千宗室、柳家小さんなど、近代以前に確立した「名」は、襲名されて現代に残っている。これらの名は個人につけられるものではなく、社会システム上の役割につけられるものだ。現代まで残っているのは、その役割が重要である、あるいは伝えられていくべきものであると認識されているためだ。
立川談志は、前座名小よし、二つ目で小ゑん、真打で談志と3つの落語家名を持っていた。これも同じである。社会システム上の役割、つまり落語家としての重要度が変わったために、名前も変わったのだ。

落語の登場人物も、同じように考えられる。熊さん八っつぁんという名は、大工とか左官とか、江戸の職人につけられたものなのだ。あくまで彼らの役割につけられたものであって、個人につけられたものではない。だから別の人物でもいいのである。落語の登場人物はたいがいそうだ。

現代において、名は役割につけられるものではない。個人につけられるものだ。なんでかって、そりゃ税金とったり兵隊にしたりするときラクだからさ。社会システム上の役割が変わったからって、ころころ名前を変えられたらめんどくさいでしょ。税金逃れも兵役忌避も簡単にできちゃうでしょ。それを禁じるために、名とは個人につけられるものであるとしたのだ。すなわち、現代のような「名」があるのは、近代特有の現象なのである。

本書によれば、このような「名」があるからこそ、「自分が何者かでなければならぬ」という強迫観念が育ち、個人は個性を持たなきゃならぬと思い込まされてしまうのだという。自分探しとかキャラクターがなくちゃとか、みな「名」が個人につけられるものであり、生涯変えられないことから生じる近代特有の病だという。これは養老孟司先生も指摘しているらしい。元パリコレモデルのIVANも『しくじり先生』で言ってたぜ。個性を追いかけすぎてホームレスになっちまった、個性重視も考えもんだって。

本書は江戸時代の慣習を述べることにより、現代に生きるわれわれの生活をあぶり出して見せてくれる。落語の国からのぞいてみたとき、見えてくるのは、俺たちが住んでるこの世界のありさまだ。……嘆息せずにいられない。俺たちゃなんてヘンなところに住んでるんだ!

落語に『長屋の花見』という噺がある。上方では『貧乏花見』という。貧乏人がぞろぞろ花見に出かけて起こす珍騒動がテーマであり、おもしろいところもたくさんある噺だ。だが、心の底から笑えないところがあった。理由はわかっている。ここに登場する人たちが、最貧民だからだ。スラムの住人だからだ。今日の食事にも困るような、リアルな貧困に日々襲われている人たちだからだ。俺は甘ちゃんだが、貧乏の怖さは知っている。だから、笑えなかった。……いや、正確には、笑ってるんだけど、心の底から笑えないというか、そんな感じだった。

しかし、本書を読んだ今ならこう言える。
なるほど彼らは貧しいかもしれない。だが彼らは、現代のわれわれが持っていないものを持っている。それはたとえば上記のような「名」にまつわる自由さだ。他にもある。俺たちは彼らに比べりゃ豊かかもしれないが、貧しいところもたくさんあるんだ。

作者はこう語っている。
「江戸の昔がよかったという話をしたいわけではない。ただ、江戸の昔より、現代のほうがずっと幸せだともおもえない」

レビュアー

草野真一 イメージ
草野真一

早稲田大学卒。書籍編集者として100冊以上の本を企画・編集(うち半分を執筆)。日本に本格的なIT教育を普及させるため、国内ではじめての小中学生向けプログラミング学習機関「TENTO」を設立。TENTO名義で『12歳からはじめるHTML5とCSS3』(ラトルズ)を、個人名義で講談社ブルーバックス『メールはなぜ届くのか』『SNSって面白いの?』を出版。「IT知識は万人が持つべき基礎素養」が持論。2013年より身体障害者になった。

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