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【平凡な人生でよい?】もう一度だけ、好きなことをやりたくなる感動作

一〇〇〇ヘクトパスカル
(著:安藤祐介)
2016.07.16
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大学生の頃、ひとり暮らしだった僕の部屋に友達数人が集まって、朝方までよく飲んでいた。 その友人たちとは別に、離れを持っている友達がいた。幼馴染みだ。離れは、子供の頃から腐れ縁を続けている親友たちの溜まり場。もちろん、そこでも陽が昇るまで飲み明かした。それが、大学時代のハイライト。他にも楽しかったことはあったけれど、真っ先に思い出すくらいだから、それが(あえて順番をつけるなら)一番の思い出なのだろう。
 
こうして書き起こしてみると、当時の僕は飲んでばかりいたらしい。ちゃんと大学には通って、つつがなく4年を過ごしたが、傍から見れば自堕落な学生だと思われていたかもしれない。

もっとも、城山義元(しろやま・よしもと)とその友人たちよりは、よほど真面目だったことだけは断言できる。

彼らの生態はすこぶる酷い。ひたすら怠けている。その上、義元に至ってはまともに自己主張すらしない。何事につけ受動的な彼の口癖は、「いいんじゃないですか」。

そんなんだから、神田川沿いにある木造アパートの2階の部屋は、酒と煙草と駄菓子の香りが漂い、サークルのバンド仲間の溜まり場になっている。というか、ほとんどみんなで一緒に暮らしているようなありさまだ。
 
後輩の洗濯物が部屋干しされ、我が家のごとく風呂にも入れる。たまにではなく、これが日常風景、もし同じ状況に置かれたら僕などはとても堪えられない。義元にプライバシーなどない。それなのに「いいんじゃないですか」の精神ですっかり慣れ親しんでいる。あまりにも受け身なので、凡人には理解しがたいほど器の大きな大人物なのではないかと疑ったほどだ。むろん、とんでもない買い被りである。

彼らが真面目に講義など受けるはずもなく、進級はぎりぎりで、具体的な将来の夢や目標もない。自堕落、怠惰、漫然、そんな言葉がよく似合う。でも、それはそれでリアルな男子大学生の写し絵なのだろう。
 
思い返してみれば、僕の友人にもたくさんいた。僕自身にもそんなところはあった。みんなが明確な目標を持てるわけじゃない。つれづれに日々を過ごし、手の届く範囲内にあるカードの中から1枚抜き取って、それを自分の「将来」にする。たいていの人は、そうするしかない。月並みな表現になるが、それが普通の人生だ。
 
でも、そうした生き方から外れてしまう人も当然いる。

「空がどうして青いか、知っていますか?」

義元はある日、クラスメートの羽村友恵(はむら・ともえ)から、唐突にそんな質問を受ける。答えは、「太陽の光が空で乱反射し、無数の青い光線が飛び交っている」から。この質問と答えが彼を変えた。

ほとんどの人にとって、空が見せる顔というのは、「晴れ」「曇り」「雨」の3種類ぐらいのものだろう。でも、ちゃんと見ると、様々な変化があり、その多様性に義元は魅せられてゆく。友恵と一緒に過ごす時間が増えると、怠惰な日々を改善するようにもなった。
 
やがて就職活動の時期になり、徐々に義元の友人たちも変わってゆく。それまでの退廃した生活をようやく悔やんで、今度は愚痴をこぼし始める。そしてここからが『一〇〇〇ヘクトパスカル』の面白さ全開と言ってもいい。堕落した日々にさえ、優しくスポットライトを当てているところが本作の特徴であり、魅力なのだから。

バンドの後輩、門松(かどまつ)が、涙ながら義元に訴えかける場面が印象的だ。

「僕は城山さんや浅野さんや林さんと会えて、本当によかった。ドラムを覚えて、麻雀を覚えて、毎日酒を飲んで。こんなに楽しい毎日は今までなかった……」

「だから、無意味だなんて言わないでください」

門松は子供の頃から寡黙で引っ込み思案、そのため友達が出来ず、暗い高校時代から脱したい一心で、東京の大学に出てきた。そして、義元たちに出会った。時間の浪費と思えた無駄な日々も、別の誰かにとっては大切な、かけがえのない思い出。それとわかると、無駄な日々など一日たりとてない。だから義元も、やがて仲間たちに言う。

「自分たちが積み重ねてきた時間に言ってやろう。これでいいのだ」と。

「もし今まで過ごした時間の中のどこかひとつでも違っていたら、今こうしてみんなで集まっていなかったかもしれない」

人は不完全で、だからこそ少しでも補いたい。変化したい。そう願うし、頑張っても変われない自分に失望したりもする。『一〇〇〇ヘクトパスカル』には、そんな人たちがたくさん出てくる。中には、自分の努力ではどうにもならない境遇の人物もいる。義元を根こそぎ変えてしまったと言ってもいい友恵にまつわるエピソードなど、身につまされ、胸が痛くなってくる。
 
生きることは理不尽だ──そう思わされる。にもかかわらず、友恵はいつだって明るくて、飄々(ひょうひょう)としているのだ。平気なふりをしているだけかもしれない。だとしても、強い。こんな子が近くにいたら、きっと好きになってしまうだろう。

上手くいかない人生。自分はいたって平凡なのに、ともすれば自分の将来はその平凡を大きく下回りそうになる。それでも嘆いてばかりでは辛すぎるから、前向きに生きていく。そうした生き方に触れ、胸の中心が熱くなったり、なんだか優しくもなれる。義元や友恵がこんなふうに生きているのだから、自分も頑張ろう。そんな気持ちにさえさせてくれる。『一〇〇〇ヘクトパスカル』は、とても温かい。読み進めるたびに温もりを感じる。四苦八苦している人々を愚直に描くことで、読者を穏やかに励ましてくれる小説なのだ。

レビュアー

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赤星秀一

1983年夏生まれ。小説家志望。レビュアー。ブログでもときどき書評など書いています。現在、文筆の活動範囲を広げようかと思案中。テレビ観戦がメインですが、サッカーが好き。愛するクラブはマンチェスター・ユナイテッド。

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