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『家栽の人』遺言──佐世保同級生殺害事件、加害者への手紙

2016.06.25
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家庭裁判所の裁判官、桑田義雄を主人公としたコミック『家栽の人』の原作者、毛利さんの絶筆となったドキュメントとエッセイです。自らの死を見つめながら最後の最後まで少年犯罪と向き合った毛利さんの思いと情熱がページのいたるところから感じられます。

少年事件や家事審判を扱う家庭裁判所を背景にした『家栽の人』はテレビドラマにもなり、ご存知のかたが多いと思います。人情味と時に厳しい桑田の姿に憧れ法曹界への道を目指した人も多かったそうです。

けれど物語が進むにつれて毛利さんはあることに気づき悩まされます。
──どうやら家庭裁判所には桑田判事はいないようだ。裁判所は自分が描いているよう和気藹々(あいあい)とした職場ではなく、ツンドラのような寒々とした場所らしい。──

物語として作られた家庭裁判所の世界、それは実際の家庭裁判所や裁判官の実像と大きく異なっていました。そのことに毛利さんは苦しみます。「『家栽の人』の物語を書いたことを後悔」するまでになっていたのです。

「人を救う物語をかいてみたい」、そんな毛利さんの思いは「桑田判事はどこにもいない」ということの前に危うくなっていきました。作品がヒットしたにもかかわらず、いやヒットしたからこそ毛利さんは、大きな現実との差から目を背けることはできなくなったのです。毛利さんは悩みぬいた末、連載を終了することを決心します。
──何も知らない物書きが裁判官の物語を書いているうち、戦後の裁判所のねじくれた歴史に巻き込まれた。そんな被害者意識が抜けなかった。──

毛利さんの心を救ったのは『家栽の人』の愛読者の姿でした。
──ぼくが書いた物語を読んだ高校生が、非行少年を救うために今、働いている。桑田判事の思想が、この若者たちによって現実の裁判所で生きている。──

毛利さんは自らの信念にもう一度立ち戻りました。そんな彼の前にある事件が起こります。「酒鬼薔薇聖斗」による神戸連続児童殺傷事件です。この事件後、少年犯罪が相次ぎ少年法の改正(改悪)の気運が高まってきました。厳罰化を進める少年法の改正は本当に少年たちを救うことができるのか、「少年一人を責め立てるだけでは何も解決しない」のではないか、毛利さんの指摘は鋭く、この問題はまだなにも解決されていません。

少年法の歴史をめぐる毛利さんの文章はジャーナリストとしての本領が発揮されている個所だと思います。

そしてルポライターとしての本領が発揮されたのが第1部の後半に収められた文章です。まず毛利さんの少年院での“篤志面接委員”の活動が描かれています。少年たちへ必死に音楽を教える毛利さんの姿。時に行き詰まりを感じることもありました。けれどそれ以上に毛利さんを励ましたのは少年たちがある達成感をみせてくれたことでした。それがウクレレのコードひとつを弾くことであっても……。そこには毛利さんが生みだしたキャラクター、桑田判事の面影があるようです。

さらに非行少年の更正、就労支援に尽力しているふたりのかたが紹介されています。

ひとりめはガソリンスタンドの社長、100人以上に及ぶ少年・少女を雇い続けてきた野口義弘さんです。(元)非行少年たちとのやりとり、彼らの親との野口さんの対話、そこには毛利さんをして「凄すぎる、この人は神様なのだろうか?」とまで思わせるものがありました。まずどこまでも彼ら、彼女たちを信じるという野口さんの行動は誰にでもできることではありません。野口さんを描く毛利さんの筆致には深い愛情と尊敬の念があふれているのが感じられると思います。

もうひとりは学習塾を開いている藤岡克義さん。「中学校の勉強をほとんどしなかった少年を受け入れて」、高卒認定試験に合格させ、大学進学までサポートしてるそうです。藤岡さんが特異なのは、自身も元非行少年だったということです。藤岡さんは大検を経て大学へ入学し、「過去の非行歴を隠すことなく大手ゼネコンに入社した」という経歴の持ち主です。一度入ったエリート進学校に嫌気がさし、故郷の友だちの元へ戻ろうとした藤岡さんでしたが、友だちとの再会は果たせず非行への道を歩んでしまった藤岡さん、自分の体験から“非行”へと向かう少年の心の傾きがよく感じられたのかもしれません。

大手ゼネコンに入社後のある日、藤岡さんの心に浮かんでくるものがありました。それは「ぼくのような元非行少年を、大検に合格させて大学受験に導く仕事が、自分の本当の仕事なんじゃないか」というものでした。そして藤岡さんは姉とふたりで学習塾フジゼミを開くことになったのです。着実に成果が上がっていきました。それは毛利さんをして、「フジゼミは元非行少年たちにまったく新しい生き方を指し示す、まぶしい光なのである」とこの本に記すまでになったのです。

そして第二部、これは2014年に起きた佐世保高一同級生殺害事件の加害者の少女宛ての手紙として書かれたものです。
──ぼくは君のことを知らない。君の声も、表情を変化させる癖も、君がどんな話題に興味を持ち、どんな言葉に反発するのか? なにもわからない。──

こう書き始められた一連の手紙は、毛利さんの少年犯罪へ向けた考えを総決算したものです。「罪を問われた人が我が身を振り返り、すなおに自分の姿をみつめることができる。それが心の底からの反省につながる。そんな場所、状況、関係はないのか?」と心の底から問いかける毛利さんの姿があります。

この時、毛利さんはすでに末期ガンの告知を受けていました。自身の半生を振り返りながら語り続ける姿、ガンとの闘病を記しながら少女に見せたかったものはなんだったのでしょうか……。

それは聞き手と話し手が一体となって、その共感力によって自らを解き放ち、「他人が生きた軌跡を追いながら、ふと自分のしたことを思い出す」ということでした。「罪を問われた人が我が身を振り返り、すなおに自分の姿をみつめることができる。それが心の底からの反省につながる」と信じて、それを彼女にも願ったのでした。その思いは届いたのでしょうか……。

毛利さんは最高裁に要望書を提出します。それは「家庭裁判所の調査員が、逆送を前提にして加害少女の調査に全力を傾けない」ということないように要望したものでした。(逆送とは少年法で、家庭裁判所に送致された少年事件を、再び検察官へ戻すことです。家庭裁判所が刑事処分が相当と認めたときにこの手続きがとられます)

それもまた彼女の世界に向き合うには必要だったのでしょう。

毛利さんは『家栽の人』という作品を作ることで初めて家庭裁判所と少年法の実態を知ることになりました。そしてそれを描いた責任を背負うことで、作品の終了後も少年法、家庭裁判所に関わり続けることになりました。この本はそのように生きた毛利さんの白鳥の歌とでもいうべきものです。

本が発売された後、1ヵ月あまりで毛利さんは亡くなりました。

レビュアー

野中幸宏

編集者とデザイナーによる書籍レビュー・ユニット。日々喫茶店で珈琲啜りながら、読んだ本の話をしています。政治経済・社会科学から芸能・サブカルチャー、そして勿論小説・マンガまで『何でも見てやろう』(小田実)ならぬ「何でも読んでやろう」の二人です。

note
https://note.mu/nonakayukihiro

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