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妻を喪った男、切なすぎる復活への旅
何人かのごく常識的な毎日を送っている人間の生活を想像してみよう。
朝起きて顔を洗う。朝食を摂る。会社勤めをしていれば電車に乗って職場へ向かう。画家であればアトリエで絵を描き始めるだろうし、コックであれば厨房で仕込みを始めるだろう。
こういう生活のリズムは正気を保っていなければ、維持できない。完全に狂気に陥ったら、リズムなどどうでも良くなり、行動すること自体が面倒くさくなるだろうから。
さらに、他人と接触しなければ人は生きていけない。家庭を持っていれば朝まずは妻や夫、子供と会話するし、職場では同僚や得意先としゃべらなければ、何も始められない。フリーのイラストレーターであっても、クライアントとのコミュニケーションは不可欠だ。
規則正しい生活を送り、他者と接していくためには、正気が絶対に必要だろう。
一方、例えば凶悪犯罪が起きたとき、私たちはその犯人像を知るため、熱心にテレビでワイドショーを見たり、週刊誌やネット上のニュースを読んだりする。
私たちはメディアで知る犯罪者像と己れとを比べ、どこが共通しているのか、どこが違うのか、把握したくなるのだ。同じところが多ければ、自身も犯罪に走るかもしれない、と不安になり、あまり重ならなければ、自分は大丈夫、と安心する。
しかし、実のところはかなりの人が、おおむねは幼年期を終えて自意識が芽生えて以降だろうけれど、自分も精神を病むかもしれない、という可能性と直面しているのではないか。人は皆、多かれ少なかれ、心に狂気をはらんで生きている。そう言い切ってしまっても間違いではないだろう。
さて本書『近いはずの人』は30代前半の会社員が主人公である。彼、北野俊英は3ヵ月前に妻を交通事故で失っており、放心状態が続いているところから物語は始まる。いわゆる大手の食品メーカーで営業の部署に所属している彼は、職場からマンションに帰宅すると毎晩、自社製のカップ麺をつまみに4本の缶ビールを飲んでいる。これは明らかに、狂気の発露である。夕食をまともに摂らず、酒とカップ麺。食欲がなく、酒で気を紛らわせることが習慣になっているわけだ。
3ヵ月前、妻の絵美は友人と旅行に行くと言ってマンションを出た。その途中、乗っていたタクシーが事故を起こし、運転手も絵美も死んだ。それまで4年、一緒に住んでいた妻がいきなりいなくなった。
絵美のバッグに入っていたケータイは無傷であった。俊英はビールとカップ麺だけを摂取して、そのケータイをいじる夜を毎日続けている。ダイヤルロックされていて、4ケタの暗証番号が何なのかは分からない。しかし、彼は地道に様々な番号を打ち続け、いずれロックが解けることを願っている。なぜ、そうするのか。ケータイの中から、彼女が亡くなった要因を知る手がかりを見つけられるのではないか、と思っているからだ。
人は死んでしまえば終わりである。しかし、残された者は納得がいかない。なぜ死んだのか、その理由付けが欲しくなる。俊英はケータイから、その理由を見つけ出そうとしているのだ。
ただ、毎晩その打ち込みを続けていることが、やはり狂気の発露なのである。偏執的と言っていい。
俊英は普段の仕事では、少しのミスをすることはあっても、一応は体裁を保っている。社会人として完全に破滅したわけではない。だが、内面の孤独感は全く消えない。外面でまともな振りをしていても、心の中では常に妻のことを想い出し、仕事に身が入っていないのだ。
〈僕〉という一人称語りの小説である。だからこそ、彼の内面が赤裸々に書かれる。
絵美が亡くなる前はさほど酒は飲んでいなかった。なのに今は酒なしでは生きていけない。毎晩がカップ麺だから体力は落ち、駅の階段でつまずいてしまったりする。
こういう喪失による混迷を、人は誰しも体験するのではなかろうか。生きていて常に幸せ、ということはないだろう。むしろ、辛いことのほうが多いかもしれない。とりわけ、最愛の人を失ってしまえば、正気を失って当然だ。
本作は、その正気を失った人間がどのように再生していくかのプロセスを描いた小説なのである。妻と親友であった女性と食事をしたり、妻の死と深く関係している男と会ったりするなどして、俊英は心の混迷から脱出しようと躍起になっている。
悲しみから、徐々に復活していく主人公の姿が素晴らしい。人は希望が失われても、生き続けていく。そのための拠り所を探っていく。そういう小説である。
レビュアー
文芸評論家。1967年北海道生まれ。法政大学文学部日本文学科卒。2003年「業と怒りと悲しみと―結城昌治の作品世界―」で第10回創元推理評論賞を受賞。文庫解説、新聞や雑誌での書評、作家や俳優へのインタビューを中心に活動している。2012年『淡色の熱情 結城昌治論』(東京創元社)を刊行。同書で2014年、第26回大衆文学研究賞・大衆文学部門を受賞。
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