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【全米絶賛】1925年『武士の娘』ベストセラーの真相

2016.01.28
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●日本人女性が書いた米国でのベストセラー

1925年、アメリカでスコット・フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』やアーネスト・ヘミングウェイの『日はまた昇る』、セオドア・ドライサーの『アメリカの悲劇』と伍してある小説がベストセラーとなりました。

この本は、その小説『武士の娘』を著した杉本鉞子(えつこ)の生涯を追ったノンフィクションです。『武士の娘』は自伝的小説といわれていますが、そこでは書かれなかったこと、『武士の娘』出版以後の鉞子の著作や生涯を克明に追っていきます。

なぜ東洋の無名の一女性の自伝的小説が大きな反響を呼んだのでしょうか。内田さんはこう記しています。

「アメリカの読者の多くは、ミステリアスな日本の『武士の娘』への興味から読み始めるが、読みすすむにつれて、このけなげな少女が、内戦(戊辰戦争)に敗れても武士の誇りを失わなかった父母のもとで、厳しい教育としつけをうけて育ったことを知る。そして、さまざまな試練にたえながら、二つの異質な国で果敢に人生にたちむかう、ゆるぎない信念と不屈の精神をもつ女性の半生記に感動するのである。この本は、信念がゆらぎなんとなく不安を感じていた人々の心に、どことなくやさしく響くものがあった。そして、人生には生きる意味があることを思い出させてくれるのであった」と。

その頃のアメリカは「戦争景気のおかげで未曾有の繁栄を享受」する一方で「それまで意味をもっていた宗教やモラル(道徳)に疑問が投げかけられ、批判され、あるいは否定される」時代となっていました。ヘミングウェイたち〝ロスト・ジェネレーション〟の作家たちが「戦後の繁栄にも自由の享受にもなじめず、生きる意味を失って人生に挫折していく姿を描いていた」中で異彩を放つものとして『武士の娘』は人々の心をとらえたのです。

●厳しい教育の中に生きている武士道精神

鉞子は明治5年に長岡で生まれました。長岡というと司馬遼太郎の『峠』で描かれた河井継之助や米百俵の小林虎三郎、さらには山本五十六らの出身地で知られていますが、鉞子はこの河井継之助と対立した筆頭家老、稲垣平助(茂光)の子として生を受けました。後世、河井の評価が上がるにつれて、平助は裏切り者、臆病者の烙印を押され、主家再興のために奔走した平助の行動は認められることはありませんでした。「権力闘争の虚しさを厭というほど味わった」平助は明治になり、あらためて「家族愛や人間愛の大切さ」に気づかされました。鉞子はそのような家族のもとで育てられたのです。

明治になり不運にも事業の失敗も続き(いわゆる武士の商法です)、稲垣家は失意の底にありましたが、それでも教育への熱心さは変わることがありません。鉞子にも〝武士の教育〟を受けさせたのです。四書(『論語』『大学』『中庸』『孟子』)から始められた教育は極めて厳格なものでした。姿勢の崩れ一つで授業(お稽古)を中断するような学舎で教育を受けました。この教育を通じて鉞子はのちに『武士の娘』の中で「現代に生きる武士道」(ニューヨーク・タイムズ誌)と賞賛される精神・倫理というものを身につけていったのです。

東京での、勉学と給費生としての生活を経て鉞子は兄の恩人へと嫁すことになり、一人、夫の待つアメリカへ旅立ちます。向かった先はオハイオ州シンシナティ。そしてその地で出会ったのが鉞子に『武士の娘』を書かせることとなったフローレンス・ウイルソンでした。16歳年上のフローレンスは時にアメリカの風土・文化を教える師として、時に敬虔なクリスチャンの先達としてさまざまな影響を、厚い友情を通して鉞子に与えたのです。

夫の死をはさんでの帰国、けれど鉞子は再びアメリカへ向かいます。夫の実家の事情と娘の教育の板挟みの果ての決断でした。鉞子は苦しい生活の助けにと思い、雑誌への投稿を始めます。なかなか採用されない原稿、そんな鉞子を励まし続けたのもフローレンスでした。やがて日米の文化の違いを綴る鉞子のエッセーに注目が集まり始めました。また、コロンビア大学で日本語と日本文化を教える教壇に立つことにもできるようになりました。その中で書かれたのが『武士の娘』でした。

●鉞子の一生が私たちに残したもの

『武士の娘』刊行後、帰国した鉞子を待っていたのは戦争へと向かう日本の姿でした。鉞子は4作目にあたる『お鏡お祖母さま』の執筆に取りかかります。刊行されたのは昭和16年、太平洋戦争開戦の8ヵ月前でした。この『お鏡お祖母さま』もまたアメリカでベストセラーになりました。支那事変下の女性の生活を描いたこの小説には「人間愛、家族愛、日々の生活の大切さ、そして人間の絆の大切さ、という世界共通の価値観がつらぬかれている」。それは鉞子の非戦の願いであり、さらには「戊辰戦争のさい長岡藩で非戦の立場に殉じた父稲垣平助の思いを受け継いでいた」ものでもあったのです。

しかし鉞子の願いは虚しく、日本は戦争への道を突き進んでいったのです。戦禍の日々、そして敗戦後の日々、アメリカ人の友人との再会もありましたが、鉞子に残された時間はあまりありませんでした。占領下の昭和25年6月、鉞子は鬼籍に入りました。

鉞子は私たちに何を残していったのでしょうか。没落した武士階級の中に生まれ、苦難の日米生活の中で彼女が描いたのは「家族の絆や人間の絆というものがどう変わっていくのか、変わらないのか、人間として失ってはならないものはなんなのかという普遍的なテーマ」でした。この大いなる問いに身をもって答えを出そうとしたのが鉞子の一生だったように思います。そして鉞子が抱えたこの問いは今もなお私たちの前にあるのではないでしょうか。

レビュアー

野中幸宏

編集者とデザイナーによる書籍レビュー・ユニット。日々喫茶店で珈琲啜りながら、読んだ本の話をしています。

note
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