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現代社会に「正しい答え」はもうない。「悪い」と「もっと悪い」から苦渋の思いで答えをつかみとることもある

60 tとfの境界線
(著:石川智健)
2015.11.02
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本書は、25歳の当時に執筆した『グレイメン』で国際的小説アワード「ゴールデンエレファント賞」を受賞しデビュー、『エウレカの確率』シリーズなどで人気を誇る石川智健氏の小説です。

主人公は「誤判対策室」という、日陰の組織に所属する3人の人々。刑事、検事、弁護士という、司法に関わる3つの役割の人たち間の物語。中でも中心になるのは、定年を半年後に控えた、元捜査一課の刑事、有馬。
取り調べの名人であったはずの彼は、ある事件をきっかにしてもはや捜査の現場では使えない男になっていました。ですが、ある死刑囚に冤罪の疑いがあることを知り、司法にたずさわる人間として最後の情熱を燃やすことになります。

作中に登場する「誤判対策室」は現実の組織ではなく、作者による作中の設定。死刑判決がくだされ、審理が終了した事件について、あらためて捜査を行う部署で、アメリカにそのモデルがあるそうです。
所属するのは、現場から降りた刑事、失点が続いた検事、見た目の毛並みはいいがなにかいわくのある弁護士の3人。そうたった3人だけの、日陰の組織。

この設定が浮き彫りにするのは、現代の死刑制度のねじれ。もともと死刑という制度は、数多くのドラマを人々に想起させてきましたが、この小説が提起するのはもっとも現代的な状況です。
犯罪の抑止力として存在する死刑という制度。この制度について、国際的な潮流としては、廃止の流れがある。たとえば国連の委員会が日本にも「死刑制度の廃止を検討すべき」と勧告していました。しかしその一方で世論としては刑の厳罰化の潮流と、8割の人が死刑制度に賛成しているという現実がある。
一方では廃止、他方では存置。こうした相反する極があり、ある意味で、ねじれた事態になっている。

こうした「相反する流れが同時に起きる」という現象は、現代では珍しくありません。むしろごく一般的な状況で、たとえばグローバル化という現実があり、極東の日本にも、中東の難民受け入れが要請される状況でありながら、世論としては、排他的な感情が目立ってきている。開国圧力と鎖国圧力が同時に高まっているわけですが、こうしたことはもしかすると、人の世の営みにつきものの現象なのかもしれません。

「誤判対策室」は、この矛盾を解きほぐすために設置された「はず」でした。ただ、現代社会は複雑です。なにが正しいのか、正しくないのか。
有馬たちは「金銭目的で住居に進入し、居合わせた主婦と二人の娘を殺害。その後、放火し証拠の隠滅をはかった。犯人は自白し、罪を認めている」という事件の再捜査にあたるのですが、その過程で「そもそも自分たちの仕事の意義はなんだったのか」という、あまりにも大きな壁にぶちあたります。
もしかすると複雑で膨大な情報の海におぼれて暮らす現代には、もはや「絶対に正しいこと」などどこにもない。時には「悪い」と「もっと悪い」の間から、苦渋の思いで選択肢をつかみとらなければならなかったりするのかもしれません。

組織の事情、社会的な要請、大人の判断。さまざまな事情があります。その中で、人はなにを大切にして生きればいいのか。なにを指針にするのか。この誤判対策室の3人の老若男女は、それぞれに答えを見つけていくことになります。

作中、事件は思いもよらぬ展開を見せ「正解はどこにもない」という、現代社会の複雑さを、劇的に、象徴的に開示する。
現実を前に個人はどう生きるか。それ以上に「なにができるのか」。読者は誤判対策室の男女がたどりついた答えに、社会という名の迷路の奥深さと、その中で見出した救いを、同時に感じることになるのではないかと思います。

レビュアー

堀田純司

作家。1969年、大阪府生まれ。主な著書に〝中年の青春小説〟『オッサンフォー』、現代と対峙するクリエーターに取材した『「メジャー」を生み出す マーケティングを超えるクリエーター』などがある。また『ガンダムUC(ユニコーン)証言集』では編著も手がける。「作家が自分たちで作る電子書籍」『AiR』の編集人。近刊は前ヴァージョンから大幅に改訂した『僕とツンデレとハイデガー ヴェルシオン・アドレサンス』。ただ今、講談社文庫より絶賛発売中。

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