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青春の物語だからといって、成長物語とは限らない。安定が稀少な価値となった現代で、ますます愛される若き医師の物語

2015.10.26
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『獄医立花登手控え』は、藤沢周平さんの時代小説のシリーズ。『春秋の檻』『風雪の檻』『愛憎の檻』『人間の檻』の4巻で構成されています。
主人公の立花登は、まだ若い医師。東北の小藩出身の彼は、幕府の御用にもあずかるという叔父の小牧玄庵の活躍に憧れ、江戸に出てくる。しかしその叔父の実態は、酒毒に冒され、すっかり妻の尻に敷かれた流行らない医者。自然、叔父の縁に連なる登の待遇も悪く、下男扱いで、従姉妹にあたるおちえにまで呼び捨てにされることに。
しかも小牧玄庵が副業としていた小伝馬町の獄医の仕事まで、押し付けられる始末でした。実は帰郷した時に小牧玄庵が自慢していた「幕府の御用」とは、その獄医の仕事のことだったのです。若い登は、この獄医の仕事を通してさまざまな事件に関わっていくことになります。命の危機に陥った時に彼を救うのは、身につけた起倒流柔術の心得でした。

登が小伝馬町の牢で出会うのは、やはり「訳あり」の人々となります。最初からずっとろくでなしだったおやじもいますが、思わぬ転落に陥った平凡な娘もいる。いずれにせよ、牢に入るという経験をした者たちゆえ、恵まれぬ境遇にいます。そうした人物に焦点が当たるという点で、この小説は藤沢周平さんの小説としてまさに「王道」だと思います。
しかしその一方で「異色」でもあると、私などはずっと感じてきました。なにせこの小説の根本には「明るさ」がある。獄医を主人公としながら、いつもどこか青い空につながっている感じがします。

松本清張さんが初期に指摘していましたが、元来、藤沢さんの作品には、宿命的な暗さがつきまとっていました。
武家の暮らしを描けば、藩の間で、引き裂かれる個人を主題とした。登場人物が安定と自由の境界で苦悩した時、必ずしも自由を選択する訳ではなく、しばしば苦渋のすえに悲劇を飲み下し、安定の道を歩んだりしていた(もしこれが、無条件に安定を捨てて自由を選択することが肯定されていたのであれば、藤沢文学の今日での読み方は、変わっていたと思います)。
市井の人を描いても、抗いがたい運命に飲み込まれて転落していく人や、人の生活を破壊してしまう、暗い欲望に焦点を当てていた。この「欲望」は、人の形をとって現れることも少なくありませんでした。

もっともこうした作風はやがて変わっていき、極上のユーモアを持った「用心棒日月抄」のような作品たちが登場してくるのですが、それにしてもこの「立花登手控え」シリーズの明るさは、中でも少し異質な感じがします。
ひとつには「牢獄」を舞台とする以上、それに向き合う人物までもが暗いと、娯楽作品としては重すぎるのかもしれない。「牢獄と青春を対比させることに、物語の魅力がある」という意図だったのかもしれません。
もうひとつ、医師という設定の面白さがあるのかもしれません。江戸時代の医師は現代とは違う。国家資格があるわけでもない、ある意味で自由人です。登は、医師を志して江戸に来た時点で、すでに武家の道を捨てている。「人を助ける」という理想を求めて旅に出た楽観的な若者であり、獄医の仕事は、彼の最終目的地でもなければ、たどりついた生活の手段でもなく、「旅の途中」の体験でした。

実は上でふれた「用心棒日月抄」シリーズの場合は構図が違っていて、あちらでは、安定した身分でいた青年藩士、青江又八郎が、ゆえあって脱藩し、江戸で用心棒として暮らすことになる。しかし彼の場合は、最終的には「藩」という安定を持つ身であり、同じ旅の途中の経験でも、登とはまったく違う立場でした。
青江又八郎の場合、時には自由に憧れもするが、しかしそれは贅沢な話。彼はあくまで藩士でありつづけ、シリーズの最後には、見た目からすっかり変わってしまった彼が登場し、あくまでお家大事の美学を感じさせるセリフをちらっと吐いて、読み手をドキッとさせたりします。このシリーズではあくまで「安定」が最終目的になることで、独自の哀歓を生み出していました(念のためですが、こちらも何度も繰り返して読む大好きな作品です)。

一方、立花登という青年の魅力は、旅の途中でどんな目に遭っても、変わらないこと。このシリーズは、まだ未完成な若者を描きながらも、「成長物語」とは断言できません。
獄医の経験は、彼を大人にはしたことでしょう。牢獄の現実は、きれいごとではない。彼は若くして人生の裏面を身をもって知ることになる。しかし彼は変わらない。困った人がいれば見捨ててはおかれず、囚人といえども人ではないかと思い、医療に心を尽くす。そうした性格はまったくそのままに、やがて彼は門出の時を迎えることになります。
その未来は前途洋々とは限らない。しかし、これからもきっと彼は変わらない。そう感じられることが、このシリーズの素晴らしい読後感につながっているのだと思っています。

かつては「安定を捨てて、自由への道を疾走することこそロック」といった美学が、主流だった時代もありました。藤沢さんは、不倫が死罪につながるという、不自由な時代の恋物語をお書きになったりもしていますが、安定が望んでもなかなか手に入らない稀少な価値となった現代、その作品はますます大切になっていると感じます。まだ読んだことがないという人はぜひお勧めです。

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レビュアー

堀田純司

作家。1969年、大阪府生まれ。主な著書に“中年の青春小説”『オッサンフォー』、現代と対峙するクリエーターに取材した『「メジャー」を生み出す マーケティングを超えるクリエーター』などがある。また『ガンダムUC(ユニコーン)証言集』では編著も手がける。「作家が自分たちで作る電子書籍」『AiR』の編集人。近刊は前ヴァージョンから大幅に改訂した『僕とツンデレとハイデガー ヴェルシオン・アドレサンス』。ただ今、講談社文庫より絶賛発売中。

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