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賭けという意志の世界の極限で現れる「善」の世界

善の根拠
(著:南直哉)
2015.04.21
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南さんは禅の修行僧です。南さんの仏教の修行と知見の中から「善とはなにか」「倫理となにか」という根源的なテーマに独力で挑んだ読みごたえのある哲学書(といっていいと思うのですが)です。

善といい倫理といい、それらはなにより人間を前提としたものであるのはいうまでもありません。けれど仏教は人間というものを独特のとらえ方をしていると南さんは記しています。
「仏教が最終的に「人間」を問題にしないからである。仏教の問題はあくまでも教えそれ自体なのであり、教えがまさに実践されたことだけが重要なのであって、個々の実践者の身の上などは、どうでもよいのである。どこの誰がどんな事情で修行しようと、そんなことは一切無意味だ。仏教において彼は、「教えを学び修行する」実存としてしか意味がないのである」
実体としての人間には何ら根拠がない。肝心なのは「教えを学び修行する」意志というものなのだといっているのです。

この意志はどこへ修行者を誘うのでしょうか……。
「「ブッダ」になることのほうが「自己」であることよりも結構なものなのかどうかは、実際に「ブッダ」になった者以外、誰も知らない。それが嘘でない保証は何も無い。それでも「ブッダ」になる道を選ぶのは、根拠の無い決断、賭けである」
「諸行無常」「諸法無我」という世界をとことん突き詰めるとこうでしかないのかもしれません。

しかもこの「自己」という善(倫理)の担い手はというと、
「「自己」はそれ自体に根拠を持つ、「実体」的存在ではなく、「他者に課される」ことによって、その根底から構造化されている。また、その「他者」は「課す」行為においうて、「自己」に「原因」的に組み込まれて「他者」たりえている」
「自己」はなによりも他者との関係性によって存在するものということになります。

だからといって善(倫理)を志向することが錯誤だといっているのではありません。ただし、それは「善行を勧奨し悪行を抑止する」ことではありません。意志を持ち(修行という実存として)「善悪の無化」にある「善悪の外に出る」というものなのだというのです。

いずれは否定するために、まずは「自己」を肯定する。この一見非合理に思える中にこそ「善」へといたる道がある。それが「無常にして解消されるべき「自己」をあえて意志することこそが「善」の、「倫理」の根拠である。そうある他はないのだ」という南さんの言葉に結実しています。

賭けという意志の世界の極限で現れる「善」の世界。
「矛盾と困難に満ちた「自己」という存在様式を肯定し受容する態度を「善」と呼び、。否定し拒絶する態度を「悪」と考える。さらに言えば、「自己」を受容する決断が善の根拠であり(略)その拒絶が悪の起源となる」
「善とは、「他者に課された自己」を受容すること、悪はその拒絶を肯定すること(「自死してよい」ということ)である」

他者との関係性の中で存在する「自己」に唯一残されたのが「意志」という名の自由なのかもしれません。人間(自己)が持つ根源的な自由というものがあるとするならばそういうものなのではないかといっているようにも思えるのです。

「善とはなにか」という問いへの南さんの知的営為を一緒にたどる読書体験は私たちに深い思索とともに新しいなにかを私たちの心に残していくのではないでしょうか。充実した時間を過ごせる一冊だと思います。なkでも十重禁戒を取り上げて倫理の実践の姿を明示していく論証は実に明快で説得力あふれるものです。

レビュアー

野中幸宏

編集者とデザイナーによる覆面書籍レビュー・ユニット。日々喫茶店で珈琲啜りながら、読んだ本の話をしています。

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